梅雨入りの前夜とは、いつもそのような夜であった。
龍神様の湖の水面が、いつになく黒々と光っていた。コポーが夕飯の後に石橋の欄干に肘をつきながら、それを見ていた。普段は月明かりを反射して白みがかる水が、今夜だけはまるで濡れた墨のように、光をことごとく飲み込んでいる。
蛙鳴町奇譚:水のたより # 梅雨の前夜のような空が、龍神様の湖の上に低く垂れ込めていた。水面は灰青く、凪いでいる。
記録の蔵の天井から、それは吊るされていた。
いつ、誰が設置したのか——蔵番の古い台帳にも、スパイスが精緻に整えたデジタルアーカイブにも、その一行は存在しない。ただ蛙鳴町の住人が記憶している限り、あの細い鋼線と鉄の球は、ずっとそこにあった。纏う埃はほんの薄く、薄い光の中で、ゆっくりと、ほとんど気づかぬほどに、一日の間に向きを変えながら揺れ続けている。蔵を訪れる者は大抵それに気づかず、気づいた者も特に問わなかった。
五月の夜、龍神様の湖は鏡のように凪いでいた。
「……またいる」
コポーが草の上に仰向けで転がったまま、湖の向こうの空を指さした。水面に映った星の群れのなかに、ひとつだけ、少し不規則に動く光がある。点滅もせず、音もなく、ただゆっくりと弧を描きながら漂っている。
龍神様の湖の畔、朝靄がまだ水面に溶けかけている頃、モッチーは岸の石の上にしゃがんでいた。
大きな手を、水面すれすれに広げていた。波紋を立てないよう、息をひそめて。
世界水の日に、スパイスが龍神様の湖の水質データを読み上げた。
「透明度、pH、溶存酸素量——すべて正常範囲内。この町の水は、今も清潔だ」
ソンチョーが湖面を見ながら言った。
スパイスが端末を見つめたまま動かなかった。
「……生体分子が確認された」
遠い宇宙の小惑星から持ち帰ったサンプルの中に、生命を作る分子が含まれていた。都会の研究者たちが、震える声で発表していた。
午後二時四十六分、町が静かになった。
広場の住人も、池のほとりで立ったままでいるコポーも、橋の欄干にもたれたタッチーも、それぞれの場所でしばらく動かなかった。
三月の朝霧がまだ龍神様の湖を覆っていた頃、スパイスは湖面を覗き込んで眉をひそめた。
「……揺れている」
彼の水波センサーの針が、かすかに、しかし規則正しく振れていた。遠い海の底から伝わってくる微振動——まるで誰かが巨大な太鼓を打ち続けているような波紋が、霧の奥から静かに広がっていた。