夜明け前の龍神様の湖は、まだ闇と朝の境目に沈んでいた。切り立った北壁が黒々と水面に影を落とし、湖はどこまでも静かに、そして底知れず広く見える。桟橋に舫われた小舟の綱を、ソンチョーが黙ってといていた。
夏の龍神様の湖は、今夜だけ人間くさい賑わいに包まれていた。……とはいえ、蛙鳴町の花火は都会のそれとは違う。「大きな音は湖の主を驚かせる」という言い伝えのせいで、打ち上げられる花火はたったの三発。控えめすぎる号数に、毎年誰かがぼやくのが恒例だった。浴衣の裾に混じる金魚すくいの水の匂いと、遠くの太鼓の振動だけが、やけにリアルタイムで夏を伝えてくる。
蛙鳴町の朝は、いつもより潮の匂いがした気がした。もちろん、この町に海はない。あるのは山の奥に横たわる、龍神様の湖だけだ。
「なんでみんな、行ったこともない場所を懐かしがれるんだろう」
パパン、と乾いた音が鳴った。ソンチョーが打ち鳴らすのは講釈師の扇子ではなく、龍神様の祠から出た古い木片であったが、その調子はまさに一席の講談である。
龍神様の湖の最奥、切り立った岩肌は昔から「北壁」と呼ばれ、代々の力自慢の男衆だけが挑む修行の場とされてきた。誰も気にも留めない、ただの古い言い伝えのはずだった。
さて、蛙鳴町にゃ外の道理じゃちょいと量れねえ話ってのが、ちょくちょくあるんでござんす。今宵はそのひとつ、龍神様の湖にまつわる「月渡り」の一席、しばしお付き合いのほどを。
夕暮れの蛙鳴町、川沿いに並んだ提灯にぽつりぽつりと灯がともり始めた。生ぬるい風がしだれ桜の葉を揺らし、池の水面に小さな波紋が幾つも広がっていく。遠くで鳴く蛙の声に混じって、太鼓の練習らしき音が風に乗って届いた。
夕暮れが、来なかった。
午後七時を回っても、龍神様の湖は橙色の光の中に揺れ続けていた。コポーは湖畔の石に腰を下ろし、手のひらで水面を一度だけ叩いてから、また黙り込んだ。
梅雨入りの前夜とは、いつもそのような夜であった。
龍神様の湖の水面が、いつになく黒々と光っていた。コポーが夕飯の後に石橋の欄干に肘をつきながら、それを見ていた。普段は月明かりを反射して白みがかる水が、今夜だけはまるで濡れた墨のように、光をことごとく飲み込んでいる。
蛙鳴町奇譚:水のたより # 梅雨の前夜のような空が、龍神様の湖の上に低く垂れ込めていた。水面は灰青く、凪いでいる。
記録の蔵の天井から、それは吊るされていた。
いつ、誰が設置したのか——蔵番の古い台帳にも、スパイスが精緻に整えたデジタルアーカイブにも、その一行は存在しない。ただ蛙鳴町の住人が記憶している限り、あの細い鋼線と鉄の球は、ずっとそこにあった。纏う埃はほんの薄く、薄い光の中で、ゆっくりと、ほとんど気づかぬほどに、一日の間に向きを変えながら揺れ続けている。蔵を訪れる者は大抵それに気づかず、気づいた者も特に問わなかった。
五月の夜、龍神様の湖は鏡のように凪いでいた。
「……またいる」
コポーが草の上に仰向けで転がったまま、湖の向こうの空を指さした。水面に映った星の群れのなかに、ひとつだけ、少し不規則に動く光がある。点滅もせず、音もなく、ただゆっくりと弧を描きながら漂っている。
龍神様の湖の畔、朝靄がまだ水面に溶けかけている頃、モッチーは岸の石の上にしゃがんでいた。
大きな手を、水面すれすれに広げていた。波紋を立てないよう、息をひそめて。
世界水の日に、スパイスが龍神様の湖の水質データを読み上げた。
「透明度、pH、溶存酸素量——すべて正常範囲内。この町の水は、今も清潔だ」
ソンチョーが湖面を見ながら言った。
スパイスが端末を見つめたまま動かなかった。
「……生体分子が確認された」
遠い宇宙の小惑星から持ち帰ったサンプルの中に、生命を作る分子が含まれていた。都会の研究者たちが、震える声で発表していた。
午後二時四十六分、町が静かになった。
広場の住人も、池のほとりで立ったままでいるコポーも、橋の欄干にもたれたタッチーも、それぞれの場所でしばらく動かなかった。
三月の朝霧がまだ龍神様の湖を覆っていた頃、スパイスは湖面を覗き込んで眉をひそめた。
「……揺れている」
彼の水波センサーの針が、かすかに、しかし規則正しく振れていた。遠い海の底から伝わってくる微振動——まるで誰かが巨大な太鼓を打ち続けているような波紋が、霧の奥から静かに広がっていた。