蛙鳴町奇譚:虫と舌の休戦 # 朝のうちから、広場の石畳は青く湿っていた。梅雨の前夜の草の匂いが石畳の隙間に染み込んで、コポーの舌先がひとりでにピクりとした。
五月の終わりは、夜でも空気が柔らかい。龍神様の池から漂う水の気配が川沿いのしだれ桜の枯れた花びらをゆっくりと流す時分、スパイスの工房だけは相変わらず電球の光を灯していた。
ビワの実が熟れはじめる、初夏の午後。コポーは石橋のたもとで、白紙のノートの前に座り込んでいた。
「……書けない」
三度目の書き出しを消した跡が、紙をうっすら毛羽立たせている。今日が恋文の日だと気づいたのは、ミニコーが新聞を折りながら「五の二の三、こいぶみ、だって。兄ちゃん、読みやすいね」と呟いたからだった。
龍神様の湖の畔、朝靄がまだ水面に溶けかけている頃、モッチーは岸の石の上にしゃがんでいた。
大きな手を、水面すれすれに広げていた。波紋を立てないよう、息をひそめて。
梅雨の手前の風が、龍神様の池の面をゆっくりと横切っていった。
コポーは石橋の欄干に肘をのせたまま、川沿いのしだれ桜を見ていた。花はとっくに散り、今は青い葉が枝をことごとく埋めて、川面に翳を落としている。一週間前より確かに濃い。二週間前と比べれば、もっと。けれどその変化の瞬間を、コポーは一度も見ていなかった。