石橋の向こう、コロモ屋の軒先から揚げ油の香りが漂ってきた。
コポーは堤防の石に腰かけたまま、その方向を一点集中で眺めていた。春の連休最後の夕方、龍神様の湖の方からのんびりした風が来て、しだれ桜の新芽をゆらした。油の香りが波のように押し寄せて、鼻のあたりを揺さぶる。
石橋の欄干に、一匹の鯉のぼりが引っかかっていた。
風はない。川面は朝靄をうっすら纏って鏡のように凪いでいる。大きな黒い親鯉は、どこか遠くから流れてきたらしく、端がほつれて泥まじりの水を吸って重そうに垂れていた。
五月の朝霧が龍神様の湖の方から流れてくる頃、コポーは広場を二周してから行き先をなくして、池の畔の細い道に踏み込んだ。
しゃがんでいる影がある。
「モッチー?」
朝露がしだれ桜の葉先に溜まり、池の面に落ちた。空の西にはまだ満月が白く浮かんでいる——北のどこかの人たちが「フラワームーン」と呼ぶ、五月の丸い月だ。東の稜線は橙色に染まり始めているのに、月はまるで居残りを決め込んだかのように、黙って蛙鳴町を見下ろしていた。
「今日は働いたら負けだって、新聞に書いてあったよ、兄ちゃん」
ミニコーが朝刊を広げたのは、朝露がまだ残る広場のベンチだった。見出しに「メーデー」とある。世界中の労働者が今日だけは手を止める、らしい。
蛙鳴町奇譚:次の誰かへ # 春の霞が池を包んでいた。
龍神様の湖から流れてくる朝の空気はまだほんのり冷たく、コポーは荷物袋を両手に抱えながら石橋の上を小走りで渡っていた。
春の霞が龍神様の湖から石造りの橋まで流れてくる、静けさに満ちた朝だった。
「見ていろよ、今日こそ俺が……!」
コポーは荷物袋の端切れで縫い合わせた布の帯を首にかけ、一人で広場を走り出していた。ゴールは決まっていない。ただ届けたい場所があった。
蛙鳴町奇譚:十年後の木陰 # カエル山へ続く坂道に、土の匂いが濃かった。
春雨がしとしとと地を濡らす夜明け前、蛙鳴町の畑の端でモッチーがひとり、黙々と種を埋めていた。
指の腹で土に小さな穴を開け、一粒ずつ丁寧に押し込んでいく。雨上がりの土は冷たく、重く、それでもしっかりと種を受け取った。
踏切の警報機が、のどかな空気に規則正しいリズムを刻んでいる。 線路脇の土手では、菜の花が競うように黄色い火を灯し、風が吹くたびに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
蛙鳴町の空は、春の霞がかかったような柔らかな白に包まれていました。
4月9日。今日は「大仏の日」であり、また「左官の日」でもあります。
町の広場では、モッチーが目を細め、蓮の花のような形に組んだ石の上にどっしりと座り込んでいました。その姿は、まるで町を守る本物の大仏のようです。
蛙鳴町を流れる小さな川には、古びた石造りの橋がかかっています。 4月3日。今日は「日本橋開通記念日」にちなみ、町では橋の汚れを落とす「橋洗い」が恒例行事となっていました。
スパイスが聴診器型のガジェットを持って、広場を歩いていた。
「何してるの?」モッチーが声をかけた。
「町の『見えない小さな声』を聴いている」
モッチーが首をかしげた。
三月十六日の朝、モッチーは夜明けから台所で団子をこねていた。
ひとつ、ふたつ……十六個。数えながら、丁寧に、均等な大きさに丸めた。
「龍神様への春の供え物だ」
都会では朝から数字が騒がしかった。
「日経平均がまた下がったって……ミニコー、何円下がったか知ってる?」
「六千円以上だって」
モッチーが黙って大根を抱え直した。今日は龍神様の池への供え物の野菜を届ける日だった。重い。でも重さは、慣れている。