夜更けの工房には、スパイスの古い端末だけが青白く光っていた。画面の隅で、数字がひとつ増えるたびに小さく明滅する。
「256……あと少しだ」 スパイスは呟きながら、記録の蔵から借りてきた古いプログラムを打ち込み続けていた。町の水位や龍神様の湖の水温を、毎日淡々と記録し続ける仕掛けだ。
朝靄の残る記録の蔵で、ミニコーが古い新聞の束をめくっていた。埃っぽい紙の匂いに混じって、開け放した窓からは金木犀の気配がまだ早い風に乗ってくる。
蛙鳴町の駅前広場に、真新しい風呂敷包みがひとつ、行儀よく置かれていた。夕暮れ前の噴水が朝より控えめな水音を立て、しだれ桜の影が長く伸びている。
夕暮れの池の畔、生ぬるい風がしだれ柳の葉先を揺らすと、水面上に小さな渦がいくつも生まれた。蚊柱だ。無数の羽虫が、誰に指図されるでもなく規則正しく渦を描いている。
龍神様の池の水面は鏡のように周りの景色を映し出し凪いでいた。石造りの橋のたもとで、コポーは短冊代わりの木の葉を睨みつけ、うんうんと唸っていた。
送り火の煙がまだ空にうっすら残る中、広場には見慣れない光の柱が三本、ぐらぐらと組み上がっていた。
「よし、点いた……! これで夜でも、僕の勇姿が皆に届く!」
蛙鳴町の空は、夕暮れの朱色を残したまま、少しずつ藍色に沈んでいく。池の水面は風もないのに小さく震え、蝉の声だけがいつもより遠く聞こえた。
「兄ちゃん、今日は町中みんな、声が小さいね」
夏の陽射しが照りつける昼下がり、コポーは池のほとりでせっせと笹の葉を編んでいた。
「これで……僕だけの船が完成するぞ!」
出来上がったのは、掌に収まるほどの小さな笹舟だった。帆の代わりに、ケロミの衣装の端切れをそっと立ててある。
記録の蔵の奥、斜めに差し込む昼の光の中で、スパイスが棚の隅から取り出したのは、飴色に磨かれた小さな木箱でした。蓋を開けると、珠のひとつひとつが丸く艶を帯びた、古いそろばんが眠っています。
夜明けの靄が龍神様の池を包み込み、水面から立ちのぼる匂いがかすかに苔と土を思わせた。
「見ろよミニコー、これぞ僕特製【虹色水鉄砲】だ! 太陽を反射させて七色の水柱を上げれば、町の女の子たちもきっと……」
蝉の声さえ溶けてしまいそうな真昼、蔵の分厚い土壁だけが涼しさを守っていた。日陰に逃げ込んだ子どもたちの額に浮く汗を、団扇であおぐ手も追いつかない。
さて、蛙鳴町にゃ外の道理じゃちょいと量れねえ話ってのが、ちょくちょくあるんでござんす。今宵はそのひとつ、龍神様の湖にまつわる「月渡り」の一席、しばしお付き合いのほどを。
夕暮れの生暖かい風が、スパイスの工房の開け放たれた窓から流れ込み、はんだ付けの煙を緩やかに揺らしている。
作業台の上には、都会の廃材置き場から拾ってきたという、くすんだ赤と金のプラスチックで作られた手のひら大の小箱が置かれていた。細いケーブルで繋がれた二つの平たいコントローラーが、まるで小動物の耳のように左右に伸びている。
蒸し暑い夜、龍神様の池のほとりにスパイスの工房の灯りが揺れていた。真空管が桃色に息づく手製の無線機——「試作三号」——の準備が整うのを、コポーは油紙に包んだ台本を抱えて待っていた。
梅雨が明けきらぬ朝、蛙鳴町の古い踏切には、どこか薄荷めいた冷気が漂っていた。
ミニコーが都会から運ばれた新聞を膝の上でひらき、兄のいない縁側でひとり呟く。「……都の物理学者が言うには、この世は本当は九つの次元でできていて、僕らはそのうち三つしか畳めずにいるらしい」。折り畳まれて見えなくなった残り六つは、指の先ほどの隙間に潜んでいるのだという。
ひえびとした青い七月の、しめり気ある銀河の底の夜でした。蛙鳴町の古い踏切のそばには、背の高いシラカンバの木々が立ち並び、その葉は真空からこぼれた青い燐光をあびて、サラサラと冷たい金属のように擦れ合っていました。遠くの龍神様の湖から吹いてくる風には、かすかな薄荷の匂いと、大気電気の放電によるオゾンの香りが混ざり合っています。
七月の空気は、夜になっても生ぬるさを残していた。
コポーは広場の石段に腰を下ろし、ぬるくなった水筒を逆さにした。最後の一口は、池からあがる生ぬるい湿気とほとんど同じ温度だった。
七月の最初の朝は、霧雨ではじまった。
コポーは、スパイスの工房から無断で借りてきた古い短波ラジオを、龍神様の池のほとりにある平たい石の上に据えた。アンテナを精一杯伸ばしたものの、届いてくるのは遠い空の雑音だけだった。ラジオの外側には、古いテープで「スパイス物品・無断持出禁止・三日腹ぺこの刑」と書いてある。コポーは気にせず、ダイヤルを右に一ミリ、また一ミリと回した。
蛙鳴町の梅雨が、ようやく明けかかった夜だった。
スパイスが工房の前に張り出した布スクリーンには、地球の反対側の都市——ヒューストン——の夜景が、青白い映像で映し出されていた。その地名をコポーは鉢巻きに書こうとして、字が多すぎて諦め、代わりに「必勝」と太く書いた。インクがにじんだ。
龍神様の池が、六月の空を映して鈍く光っていた。梅雨の晴れ間に夕凪が来て、ハッシーが翼の骨をそっと確かめるように羽根を広げた。
「骨が痛む。でも、雨の予感じゃない」