五月の水田は、まだ誰の声もしなかった。
コポーは龍神様の池のほとりに、足を水に半分つけたまま座っていた。生ぬるい泥の匂いが漂い、水面は朝の光を散らしてまぶしかった。葦の先端が風でわずかに揺れ、あとは静かだった。
「べちゃ……」
五月の朝、池の端でコポーは折りかけた紙を一枚、静かに膝に落とした。空気が重い。梅雨の入り口を嗅ぎつけたような湿った南の風が龍神様の池を揺らし、岸の葦がやわらかくしなっている。
連休が明けた朝の広場は、妙な静けさをまとっていた。
コポーは石段に腰を落とし、地面の白い粉を指でなぞった。昨夜の屋台が打ち粉をこぼしていったのか、石畳に細い白い線が残っている。踏めば消える。踏まなければ、また風が来て飛ばす。
五月の四日、空の様子がおかしかった。
朝から霧が降りてきた。降りてくる、という表現は正確ではないかもしれない——池から立ち昇るのでなく、頭上より湿った影が、まるでデータパケットの洪水がネットワークを静かに溢れさせるように、音も予兆もなく滑り落ちてきた。逆さ霧だ、と大人たちは言った。
五月の澄んだ朝の空気の中、石橋のたもとにソンチョーが立っていた。シルクハットを傍らに置き、古いたわしを片手に、欄干の彫刻を黙々と洗っている。龍神様が刻まれたその浮き彫りは、何百年分の雨と風を受けて、輪郭が少しずつ丸くなっていた。川面には春の光がきらきらと揺れ、若草と湿った石の匂いがかすかに漂っていた。
朝露がしだれ桜の葉先に溜まり、池の面に落ちた。空の西にはまだ満月が白く浮かんでいる——北のどこかの人たちが「フラワームーン」と呼ぶ、五月の丸い月だ。東の稜線は橙色に染まり始めているのに、月はまるで居残りを決め込んだかのように、黙って蛙鳴町を見下ろしていた。
記録の蔵の窓から、池の光が斜めに差し込んでいた。五月に変わる前の最後の昼下がり。空気はぬるく、どこかに湿り気を含んでいた。
ケロミは楽譜の余白に鉛筆を走らせながら、何度も同じ小節で止まっていた。消しゴムをかける。また書く。机の上には消しカスが小さな丘になっていた。十年後も残る歌を書こうと決めたのは先週だったが、その「書く」という行為が今日はやけに手を縛っていた。
若葉の風が踏切の向こうから人波を連れてくる朝、スパイスは布に包まれた古い計測器を抱えて工房から出てきました。
広場の石畳に腰を下ろし、布をそっと開くと、金属の縁が傷み文字盤がすっかり黄ばんだ器具が現れました。でも針だけは今日も迷わず、まっすぐを指しています。スパイスは手帳を開き、日付と数値を書き込み、顔を上げもせずに言いました。
蛙鳴町奇譚:次の誰かへ # 春の霞が池を包んでいた。
龍神様の湖から流れてくる朝の空気はまだほんのり冷たく、コポーは荷物袋を両手に抱えながら石橋の上を小走りで渡っていた。
春の霞が龍神様の湖から石造りの橋まで流れてくる、静けさに満ちた朝だった。
「見ていろよ、今日こそ俺が……!」
コポーは荷物袋の端切れで縫い合わせた布の帯を首にかけ、一人で広場を走り出していた。ゴールは決まっていない。ただ届けたい場所があった。
工房の灯は、夜明けより先に消えていた。
スパイスが外へ出てきたのは、龍神様の湖から朝霞が立ち上り始めた頃のことだった。両腕に抱えていたのは、引き出しの奥で長年眠っていた計測器——外装には錆が浮き、目盛りの読み方を記したラベルは黄ばんでいる。それを町はずれの石垣の前にそっと置くと、スパイスは一度だけ深く息を吸い、電源を入れた。
蛙鳴町奇譚:十年後の木陰 # カエル山へ続く坂道に、土の匂いが濃かった。
蛙鳴町奇譚:白紙の贈り物 # 葉桜になりかけたしだれ桜が、川面に影を伸ばしていた。
春霞の溶けきった昼下がり、龍神様の池が青空を丸ごと映していた。
「見ろ——今日のコポーは、大地と対話する男になる」
コポーは腕まくりをして池のほとりにしゃがみ込み、スパイスから「研究目的で」借りてきた細い針の温度計を黒土に差し込んだ。小さな画面が37.2と点滅する。
龍神様の池の畔に、春の陽が均等に降りていた。
「試験放送、テスト……」
スパイスが廃材のダイオードとアルミ板を組んだ装置のつまみを回しながら、白いコートの袖をまくり上げた。几帳面に並べられた基板の上で、細い針が右へ右へと揺れている。「この周波数なら、蛙鳴町全域に届く」
春雨がしとしとと地を濡らす夜明け前、蛙鳴町の畑の端でモッチーがひとり、黙々と種を埋めていた。
指の腹で土に小さな穴を開け、一粒ずつ丁寧に押し込んでいく。雨上がりの土は冷たく、重く、それでもしっかりと種を受け取った。
春の土用、池のほとりは土がやわらかく、踏み込むたびに甘い泥の匂いが立ちのぼった。
コポーは朝からしゃがみ込んでいた。特に理由はなかった。強いて言えば「何かがある気がする」という、根拠のない確信だけがあった。
しだれ桜が水面に枝を伸ばす朝、広場の石畳に泥の足跡が点々と続いていた。
「決めた。僕は蛙鳴町で一番カッコいいカエルになる」
コポーは、木の棒を石畳の隙間に突き立て、手書きの旗をくくりつけた。インクはにじんで「カッコいい」の文字が半分かすれていたが、本人は気にしなかった。
南の空気が、朝から少しだけ違う匂いをしていた。
池の水面がざわめいている。風はないのに、龍神様の祠のしめ縄が揺れていた。コポーは縁石に腰かけて、その揺れを眺めながら腕を組んだ。カッコいいポーズをとるつもりだったが、なんとなくそういう気分になれなかった。
四月の午後、池の面が橙色に染まりはじめる時間になると、コポーは広場の隅で一個のオレンジを両手に抱えて立ち尽くしていた。
「渡すだけだ。ただ渡す。それだけだ。それだけなんだ……」