五月の正午を少し過ぎた頃、コポーは都会から届いたばかりの号外をポケットに押し込んだまま、町外れの踏切の前に立ち止まった。
警報機が、鳴っていた。
いつも開いているはずの遮断機が、白黒の棒を水平に差したまま微動だにしない。列車の来る気配もなく、線路の向こうに停まった車もなかった。コポーは鉄の棒を指の背で叩いてみた。乾いた音がして、消えた。
五月の水田は、まだ誰の声もしなかった。
コポーは龍神様の池のほとりに、足を水に半分つけたまま座っていた。生ぬるい泥の匂いが漂い、水面は朝の光を散らしてまぶしかった。葦の先端が風でわずかに揺れ、あとは静かだった。
若葉の風が踏切の向こうから人波を連れてくる朝、スパイスは布に包まれた古い計測器を抱えて工房から出てきました。
広場の石畳に腰を下ろし、布をそっと開くと、金属の縁が傷み文字盤がすっかり黄ばんだ器具が現れました。でも針だけは今日も迷わず、まっすぐを指しています。スパイスは手帳を開き、日付と数値を書き込み、顔を上げもせずに言いました。
工房の灯は、夜明けより先に消えていた。
スパイスが外へ出てきたのは、龍神様の湖から朝霞が立ち上り始めた頃のことだった。両腕に抱えていたのは、引き出しの奥で長年眠っていた計測器——外装には錆が浮き、目盛りの読み方を記したラベルは黄ばんでいる。それを町はずれの石垣の前にそっと置くと、スパイスは一度だけ深く息を吸い、電源を入れた。
龍神様の池の畔に、春の陽が均等に降りていた。
「試験放送、テスト……」
スパイスが廃材のダイオードとアルミ板を組んだ装置のつまみを回しながら、白いコートの袖をまくり上げた。几帳面に並べられた基板の上で、細い針が右へ右へと揺れている。「この周波数なら、蛙鳴町全域に届く」
龍神様の池の畔に、錆びた自転車が一台、春の光を反射して立てかけてあった。
「スパイスに直してもらったやつだ。今日こそ乗りこなす」
コポーはその二輪に手をかけ、胸を張った。昨日転び、一昨日も転び、三日前はまだ押して歩いていた。「颯爽と乗りこなせば女の子にキャーと言われるはずだ」という動機は、三日間ぶれていない。
スパイスの工房には、春の夕光が傾いて差し込んでいた。
作業台の上には錆びた螺旋と古いコンデンサが山のように積まれ、その中央に鈍い銀色のアンテナが一本、斜めに刺さっていた。スパイスは半田ごてをそっと置き、ヘッドフォンを耳にあてた。
春の土用、池のほとりは土がやわらかく、踏み込むたびに甘い泥の匂いが立ちのぼった。
コポーは朝からしゃがみ込んでいた。特に理由はなかった。強いて言えば「何かがある気がする」という、根拠のない確信だけがあった。
南の空気が、朝から少しだけ違う匂いをしていた。
池の水面がざわめいている。風はないのに、龍神様の祠のしめ縄が揺れていた。コポーは縁石に腰かけて、その揺れを眺めながら腕を組んだ。カッコいいポーズをとるつもりだったが、なんとなくそういう気分になれなかった。
龍神様の池が、春の朝の霞に沈んでいた。
水面はほとんど動かず、空の白みを映したまま、ただ静かに揺れていた。その縁に、コポーはしゃがみ込んで、もう随分と長い間、何かを眺めていた。
龍神様の池を囲む樹々は、滴るような深い翠を湛えて、一向に動きそうもない。そこへ春の柔らかな日矢が差し込むと、水面(みなも)は忽ち乱反射を起し、周囲の古びた石碑へ、複雑怪奇な幾何学模様を書き連ねるのであった。 「……成った。これこそが、私事(わたくしごと)の防壁と利便とを繋ぐ、究極の均衡(つりあい)というものだ」 スパイスと呼称される男が、恭しく掲げたのは、半透明の液晶を嵌め込んだ奇怪な鉄兜(かぶと)であった。その表面には、絶えず呪詛に似た暗号の列が走り、周囲の喧騒を一切合切、冷酷に遮断している。 「スパイス、それではお前の面体(めんてい)が拝めないではないか。折角の美男が台無しだよ」 コポーが鉄兜を軽く叩くと、その内部の拡声器から、変調された無機質な機械音が、毒々しく響き渡った。 「無知だな、コポー。都会という人込みにあっては、『己』を如何に防衛するかが喫緊の課題なのだ。貌(かお)も、声も、果ては一挙手一投足に至るまでの履歴もな。この『個体防壁(パーソナル・シールド)』さえあれば、何人(なにびと)たりとも私の思惟を覗き見ることは叶わぬ」 スパイスは鼻を高くして、満足げに胸を張ってみせた。が、いかんせん視界が針の穴ほどに狭まっていたのが災いした。彼は足元の石に躓くと、無残にも泥の中へ転倒したのである。鉄兜が岩に当たり、ガシャリと不吉な音を立てた。 「おやおや。己を隠蔽することに汲々として、足元が見えなくなっては世話がないわい」 ソンチョーが、長い杖の先で、スパイスの鉄兜の目庇(まびさし)を、そっと押し上げた。その隙間から、鮮やかな春の陽光が、不意に滑り込む。スパイスは眩しさに、思わず眼を細めた。 「ソンチョー……。しかし、情報は死守せねばならんのです」 「フェッフェッ。お主の言う『情報』とやらは、この町を吹き抜ける風よりも重宝なものかえ? 隠し事をするのは勝手じゃが、自分の心まで閉じ込めてしまえば、誰も助けの手を貸すことはできぬぞ」 ソンチョーは、傍らで黙然としていたマスクメンを手招きした。彼はいつものように、布切れ一枚で顔を覆い隠していたが、泥に塗れたスパイスへ、無言のまま肉厚な手を差し伸べている。 「この男を見よ。隠しておっても、その手の温もりまでは隠せぬものよ。守るべきは『計数(データ)』ではなく、その手の届く範疇にある『繋がり』ではあるまいか」 スパイスは、差し出された厚い手袋の手を、縋るようにぎゅっと握りしめた。鉄兜の隙間から鼻を突いた土の匂いと、仲間たちの確かな気配。それは、如何なる精密な防禦法(セキュリティ)を以てしても拒むことのできぬ、蛙鳴町の「無防備な」慈悲であった。
蛙鳴町の朝は、龍神様の池から立ち上る霧が、湿った土と古い木々の匂いを運んでくる。 「……計算通り。これなら、町の端から端まで『幸せ』が届くはずさ」
蛙鳴町の空は、春の霞がかかったような柔らかな白に包まれていました。
4月9日。今日は「大仏の日」であり、また「左官の日」でもあります。
町の広場では、モッチーが目を細め、蓮の花のような形に組んだ石の上にどっしりと座り込んでいました。その姿は、まるで町を守る本物の大仏のようです。
蛙鳴町の広場は、朝から甘い香りに包まれていました。
4月8日。今日は「花まつり」。広場の中央には色とりどりの花で飾られた小さな堂「花御堂(はなみどう)」が置かれ、中には天と地を指差す誕生仏が鎮座しています。
蛙鳴町の駅前広場には、今朝、大きな白地図が広げられていました。
4月7日。今日は「日本一周を計画してみる日」。ミニコーは色鉛筆を握りしめ、自分たちを中心とした円を、地図の上に一生懸命描き込んでいました。
蛙鳴町の西側に位置する「カエル山」。その中腹にある古い石垣の跡で、コポーは朝から必死に泥をこねていました。
4月6日。「城の日」にちなんで、彼は山道に「コポー城」を築城しようとしていたのです。
蛙鳴町の朝は、清明の名にふさわしく、透き通った光に満ちていました。 4月5日。この日は「ヘアカットの日」でもあります。エンジニアのスパイスは、広場に不思議な銀色の板を設置していました。
蛙鳴町の西の空が、燃えるようなオレンジ色から深い群青へと溶け始めていました。 4月4日。今夜、太陽に最も近づき、その熱で自らを壊そうとしている「マップス彗星」が、地平線ぎりぎりに見えるはずだと、町の人々は色めき立っていました。
蛙鳴町の駅前広場。コポーは、エンジニアのスパイスが都会から取り寄せたという、最新の「感情翻訳バッジ」を胸につけて震えていました。
「スパイス、これをつければ……僕が女の子の前でモジモジしていても、僕の『真のカッコよさ』が自動的に翻訳されて伝わるんだな?」 「……理論上はな。対象の脳波と心拍数を解析し、最も適切な言語に変換してスピーカーから出力する。君の空回りするフラストレーションも、これで解消されるはずだ」
蛙鳴町の朝霧は、今日に限って少しだけ甘い匂いがしました。 4月1日。広場の中央では、マスクメンがかつてないほど直立不動で立ち尽くしていました。その隣には、つなぎの襟を正したエンジニアのスパイスが、ホログラムのリストを手にしています。