夜更けの工房には、スパイスの古い端末だけが青白く光っていた。画面の隅で、数字がひとつ増えるたびに小さく明滅する。
「256……あと少しだ」 スパイスは呟きながら、記録の蔵から借りてきた古いプログラムを打ち込み続けていた。町の水位や龍神様の湖の水温を、毎日淡々と記録し続ける仕掛けだ。
陽が落ちきる少し前、龍神様の池の水面はまだ薄紅色を映していた。引き込み線の錆びたレールの上に、スパイスが小さな木の台をこつこつと据えている。指先ほどの折り紙——先端を丸くすぼめただけの、不格好な「ロケット」だ。輪ゴムの反動だけで飛ばす仕掛けらしい。
朝からの風が、しだれ桜の枝を落ち着きなく鳴らしていた。川沿いの草はいっせいに同じ向きへ倒れ、空の高いところを、ちぎれた雲が足早に流れていく。
橋の下で、スパイスが石造りの樋(とい)に半身を突っ込んでいた。夏のあいだに溜まった枯れ葉と泥を、細い熊手で少しずつかき出している。
朝のうちだけ、九月の池は鏡のように静まる。金木犀にはまだ早く、風は葉裏の匂いだけを運んでいた。
その静けさを裂くように、スパイスが都会から届いた小箱を工房の机に広げた。中には手のひらほどの布が一枚。
朝の工房の前に、スパイスが小さな鉄の箱を据えていた。側面のハンドルを回すと、下の型から透きとおったグミがぽとり、ぽとりと落ちてくる。どれも同じ大きさ、同じ角度、同じ琥珀色。石畳に並べると、宝石を敷きつめたように光った。
夜明け前の龍神様の湖は、まだ闇と朝の境目に沈んでいた。切り立った北壁が黒々と水面に影を落とし、湖はどこまでも静かに、そして底知れず広く見える。桟橋に舫われた小舟の綱を、ソンチョーが黙ってといていた。
蛙鳴町の記録の蔵の前に、埃をかぶったブラウン管のテレビが運び込まれた朝だった。八月の終わりの日差しは幾分和らぎ、蔵の壁を伝う蔦の葉が乾いた音を立てていた。
夕暮れの駅前広場に、スパイスの新作――小さなヤカンからほんの一瞬で白い湯気が立ちのぼる「瞬間湯沸かし器」が据えられていた。
「モデルの仕事、あと五分で撮影が始まるのに……」
朝もやの残る蛙鳴町の駅前広場、龍神様の池から漂う仄かな水の匂いを乗せた風が吹き抜ける中、使われなくなった短い引き込み線の脇に、スパイスがしゃがみこんでいた。
夕暮れの池の畔、生ぬるい風がしだれ柳の葉先を揺らすと、水面上に小さな渦がいくつも生まれた。蚊柱だ。無数の羽虫が、誰に指図されるでもなく規則正しく渦を描いている。
送り火の煙がまだ空にうっすら残る中、広場には見慣れない光の柱が三本、ぐらぐらと組み上がっていた。
「よし、点いた……! これで夜でも、僕の勇姿が皆に届く!」
蛬の声に混じって、川原には薄く煙の匂いが漂い始めていた。送り火の支度をする人々の影が、夕暮れの土手に長く伸びている。龍神様の池を渡ってきた風が、まだ夏の熱を少しだけ残していた。
記録の蔵の奥、斜めに差し込む昼の光の中で、スパイスが棚の隅から取り出したのは、飴色に磨かれた小さな木箱でした。蓋を開けると、珠のひとつひとつが丸く艶を帯びた、古いそろばんが眠っています。
夏の日差しが龍神様の池に照り返し、白い光の粒があたり一面に散っていました。記録の蔵の裏手では、蜜蝋の甘い匂いがほんのり漂っています。
「……ダメだ。また潰しちまった」
蝉の声が一段と高くなる頃、駅前広場のしだれ桜は影を長く伸ばし始めていました。
「よし……あと少しで、三時だ」
コポーは、朝から手をつけていた特製の「たい焼き」をそっと日陰に隠しながら、額の汗を拭っていました。渡す相手は、もちろんオヒサマです。
夜明けの靄が龍神様の池を包み込み、水面から立ちのぼる匂いがかすかに苔と土を思わせた。
「見ろよミニコー、これぞ僕特製【虹色水鉄砲】だ! 太陽を反射させて七色の水柱を上げれば、町の女の子たちもきっと……」
夕方の蛙鳴町、駅のホームに置かれた古びた蓄音機が、傾きかけた西日を鈍く弾いていた。真鍮のラッパには、うっすらと埃が積もっている。
「壊さないでよね。記録の蔵から、ようやく借り出してきたんだから」
夕方の川風が、しだれ桜の葉を揺らしていた。橋のたもとで長い脚を持て余すように投げ出していたタッチーの前に、スパイスが黙って一枚の雑誌の切り抜きを差し出す。
夕暮れの蛙鳴町は、まだ日中の熱をたっぷり抱えたまま、蝉の声だけが名残惜しそうに響いていた。井戸端の湯気は夜風にほどけ、龍神様の池の匂いと混じり合う。
蛙鳴町の朝、龍神様の池の水面から陽炎がゆらゆらと立ちのぼっていた。蝉時雨が耳をふさぎたくなるほど降り注ぐ、一年で一番暑い日だ。
「くっ……この暑さでは、僕の決めポーズも台無しだ……」