龍神様の池が、春の朝の霞に沈んでいた。
水面はほとんど動かず、空の白みを映したまま、ただ静かに揺れていた。その縁に、コポーはしゃがみ込んで、もう随分と長い間、何かを眺めていた。
龍神様の池を囲む樹々は、滴るような深い翠を湛えて、一向に動きそうもない。そこへ春の柔らかな日矢が差し込むと、水面(みなも)は忽ち乱反射を起し、周囲の古びた石碑へ、複雑怪奇な幾何学模様を書き連ねるのであった。 「……成った。これこそが、私事(わたくしごと)の防壁と利便とを繋ぐ、究極の均衡(つりあい)というものだ」 スパイスと呼称される男が、恭しく掲げたのは、半透明の液晶を嵌め込んだ奇怪な鉄兜(かぶと)であった。その表面には、絶えず呪詛に似た暗号の列が走り、周囲の喧騒を一切合切、冷酷に遮断している。 「スパイス、それではお前の面体(めんてい)が拝めないではないか。折角の美男が台無しだよ」 コポーが鉄兜を軽く叩くと、その内部の拡声器から、変調された無機質な機械音が、毒々しく響き渡った。 「無知だな、コポー。都会という人込みにあっては、『己』を如何に防衛するかが喫緊の課題なのだ。貌(かお)も、声も、果ては一挙手一投足に至るまでの履歴もな。この『個体防壁(パーソナル・シールド)』さえあれば、何人(なにびと)たりとも私の思惟を覗き見ることは叶わぬ」 スパイスは鼻を高くして、満足げに胸を張ってみせた。が、いかんせん視界が針の穴ほどに狭まっていたのが災いした。彼は足元の石に躓くと、無残にも泥の中へ転倒したのである。鉄兜が岩に当たり、ガシャリと不吉な音を立てた。 「おやおや。己を隠蔽することに汲々として、足元が見えなくなっては世話がないわい」 ソンチョーが、長い杖の先で、スパイスの鉄兜の目庇(まびさし)を、そっと押し上げた。その隙間から、鮮やかな春の陽光が、不意に滑り込む。スパイスは眩しさに、思わず眼を細めた。 「ソンチョー……。しかし、情報は死守せねばならんのです」 「フェッフェッ。お主の言う『情報』とやらは、この町を吹き抜ける風よりも重宝なものかえ? 隠し事をするのは勝手じゃが、自分の心まで閉じ込めてしまえば、誰も助けの手を貸すことはできぬぞ」 ソンチョーは、傍らで黙然としていたマスクメンを手招きした。彼はいつものように、布切れ一枚で顔を覆い隠していたが、泥に塗れたスパイスへ、無言のまま肉厚な手を差し伸べている。 「この男を見よ。隠しておっても、その手の温もりまでは隠せぬものよ。守るべきは『計数(データ)』ではなく、その手の届く範疇にある『繋がり』ではあるまいか」 スパイスは、差し出された厚い手袋の手を、縋るようにぎゅっと握りしめた。鉄兜の隙間から鼻を突いた土の匂いと、仲間たちの確かな気配。それは、如何なる精密な防禦法(セキュリティ)を以てしても拒むことのできぬ、蛙鳴町の「無防備な」慈悲であった。
蛙鳴町の朝は、龍神様の池から立ち上る霧が、湿った土と古い木々の匂いを運んでくる。 「……計算通り。これなら、町の端から端まで『幸せ』が届くはずさ」
蛙鳴町の空は、春の霞がかかったような柔らかな白に包まれていました。
4月9日。今日は「大仏の日」であり、また「左官の日」でもあります。
町の広場では、モッチーが目を細め、蓮の花のような形に組んだ石の上にどっしりと座り込んでいました。その姿は、まるで町を守る本物の大仏のようです。
蛙鳴町の広場は、朝から甘い香りに包まれていました。
4月8日。今日は「花まつり」。広場の中央には色とりどりの花で飾られた小さな堂「花御堂(はなみどう)」が置かれ、中には天と地を指差す誕生仏が鎮座しています。
蛙鳴町の駅前広場には、今朝、大きな白地図が広げられていました。
4月7日。今日は「日本一周を計画してみる日」。ミニコーは色鉛筆を握りしめ、自分たちを中心とした円を、地図の上に一生懸命描き込んでいました。
蛙鳴町の西側に位置する「カエル山」。その中腹にある古い石垣の跡で、コポーは朝から必死に泥をこねていました。
4月6日。「城の日」にちなんで、彼は山道に「コポー城」を築城しようとしていたのです。
蛙鳴町の朝は、清明の名にふさわしく、透き通った光に満ちていました。 4月5日。この日は「ヘアカットの日」でもあります。エンジニアのスパイスは、広場に不思議な銀色の板を設置していました。
蛙鳴町の西の空が、燃えるようなオレンジ色から深い群青へと溶け始めていました。 4月4日。今夜、太陽に最も近づき、その熱で自らを壊そうとしている「マップス彗星」が、地平線ぎりぎりに見えるはずだと、町の人々は色めき立っていました。
蛙鳴町の駅前広場。コポーは、エンジニアのスパイスが都会から取り寄せたという、最新の「感情翻訳バッジ」を胸につけて震えていました。
「スパイス、これをつければ……僕が女の子の前でモジモジしていても、僕の『真のカッコよさ』が自動的に翻訳されて伝わるんだな?」 「……理論上はな。対象の脳波と心拍数を解析し、最も適切な言語に変換してスピーカーから出力する。君の空回りするフラストレーションも、これで解消されるはずだ」
蛙鳴町の朝霧は、今日に限って少しだけ甘い匂いがしました。 4月1日。広場の中央では、マスクメンがかつてないほど直立不動で立ち尽くしていました。その隣には、つなぎの襟を正したエンジニアのスパイスが、ホログラムのリストを手にしています。
蛙鳴町の駅前広場には、今夜、不思議な「境界線」が引かれていました。 3月31日。年度の終わりを告げる風が吹く中、エンジニアのスパイスは、古びた蔵の入り口に、特製のホログラム・プロジェクターを設置していました。
夜明け前の蛙鳴町は、深い霧に包まれていました。 3月29日。カレンダーに「作業服の日」と記された今日、エンジニアのスパイスは、いつものつなぎ(作業服)の袖を捲り上げ、龍神様の湖へと続く水路の点検に勤しんでいました。
町外れの古い踏切を越えた先、しだれ桜が川面に枝を伸ばす。 今日の蛙鳴町には、都会から「AR(拡張現実)の実験」という名の新しい風が届いていました。
スパイスの工房に、手作りの電球が一個下がっていた。
「今日、点けてみる」
コポーとミニコーが見守る中、スパイスがスイッチを入れた。
フィラメントがゆっくり赤くなって、橙色の光が工房を満たした。
スパイスが聴診器型のガジェットを持って、広場を歩いていた。
「何してるの?」モッチーが声をかけた。
「町の『見えない小さな声』を聴いている」
モッチーが首をかしげた。
世界水の日に、スパイスが龍神様の湖の水質データを読み上げた。
「透明度、pH、溶存酸素量——すべて正常範囲内。この町の水は、今も清潔だ」
ソンチョーが湖面を見ながら言った。
スパイスが端末を見つめたまま動かなかった。
「……生体分子が確認された」
遠い宇宙の小惑星から持ち帰ったサンプルの中に、生命を作る分子が含まれていた。都会の研究者たちが、震える声で発表していた。
三月十四日。コポーは朝から計算していた。
「バレンタインにもらった分の、ちょうどいいお返しって何だ……」
スパイスが「3.14……円周率だ。割り切れない数字だ」と無表情に言った。
「スパイス! この装置、遠くと繋がるか?」
スパイスが手を止めた。コポーが工房の入り口で手を振っていた。
「遠くって、どこだ」
「まだ行ったことのない場所」