朝の駅前広場に、乾いた土の匂いが立ちのぼっていました。コポーは拾ったばかりの毬——龍神様の祭りで使われる、藁を編んで作った古い手毬——を握りしめ、力いっぱい振りかぶります。
長い雨が、ようやくその蒼い糸をするすると巻き上げた朝であった。空はにわかに藍から瑠璃へと変わり、入道雲が銀河の縁のようにむくむくと盛り上がっていく。蛙鳴町の裏庭では、竹のザル一面に敷き詰められた梅の実が、ひと月ぶりの陽光を浴びて、ぴかりぴかりと光っていた。塩と紫蘇に漬け込まれ、暗い甕の底で息をひそめていた実たちが、今日という日にだけ、素っ裸で空に会う。それは小さな、小さな夏至祭であった。
夏の龍神様の湖は、今夜だけ人間くさい賑わいに包まれていた。……とはいえ、蛙鳴町の花火は都会のそれとは違う。「大きな音は湖の主を驚かせる」という言い伝えのせいで、打ち上げられる花火はたったの三発。控えめすぎる号数に、毎年誰かがぼやくのが恒例だった。浴衣の裾に混じる金魚すくいの水の匂いと、遠くの太鼓の振動だけが、やけにリアルタイムで夏を伝えてくる。
龍神様の湖の最奥、切り立った岩肌は昔から「北壁」と呼ばれ、代々の力自慢の男衆だけが挑む修行の場とされてきた。誰も気にも留めない、ただの古い言い伝えのはずだった。
梅雨明けの朝、龍神様の湖の浅瀬に、一本の喇叭(らっぱ)が逆さに突き立っていた。朝顔のように大きく口を開き、細くなる胴は水底のさらに奥へと、目で追えぬほど遠くまで伸び細っている。誰が置いたわけでもないのに、住人たちはそれを、昔からそこに在ったものとして受け入れていた。
七月の空気は、夜になっても生ぬるさを残していた。
コポーは広場の石段に腰を下ろし、ぬるくなった水筒を逆さにした。最後の一口は、池からあがる生ぬるい湿気とほとんど同じ温度だった。
春雨の上がった払暁、龍神様の祠の前に広がる石畳は、霧の奥でその目地を白く滲ませていた。
スパイスが機材を持ち出したのは、まだ夜の明けぬ前のことであった。工房から運び込んだレーザーキャリパーと自作のデータロガーを祠前の石畳に据え付け、彼は細い針を繰り返し落とし続けた。針の長さは一。目地の間隔は二。
梅雨の合間、橋の欄干に腰を落ち着けたハッシーが、くちばしで器用に都会の新聞をめくっていた。
「なあ、ケロミ」
しだれ桜の根元に座って野イチゴをつまんでいたケロミが顔を上げた。
龍神様の池が、六月の空を映して鈍く光っていた。梅雨の晴れ間に夕凪が来て、ハッシーが翼の骨をそっと確かめるように羽根を広げた。
「骨が痛む。でも、雨の予感じゃない」
梅雨の湿気の奥に、台風の気配が忍び込んでいた。
蛙鳴町の駅のホームでは、キリガミネンが白い体を柱に預けて、じっと南の空を見上げていた。いつもならば往来する人々の間にひんやりとした空気の島を作るだけで十分な彼が、今日は珍しく、誰かに話しかけたそうにしている。雲の淵がほんのり橙を帯び、風は湿っているのにどこか低く、重い。
夏の匂いが滲み始めた広場に、スパイスが組み上げた即席の映写幕が青白く光っていた。
「ワールドカップ、グループステージ。アルゼンチンの試合だ」
スパイスは改造スピーカーの配線を直しながら、それだけ言った。配線が古い街灯にからまり、石畳からの反射光がスクリーンの端を照らしていた。
夕暮れが、来なかった。
午後七時を回っても、龍神様の湖は橙色の光の中に揺れ続けていた。コポーは湖畔の石に腰を下ろし、手のひらで水面を一度だけ叩いてから、また黙り込んだ。
蛙鳴町奇譚:はじめの一音 # 梅雨の空は、朝から鉛色に押しつぶされていた。池の面に細かい波紋が広がるのは、遠い空から届いた台風の余波か、それとも龍神様が深い眠りから寝返りをうったのかと、広場のベンチに腰かけたコポーは、ぼんやりと考えた。
蛙鳴町の夜は、湿った空気が池の面をゆっくりと揺らし、龍神様の祠の結界が遠い光に白く染まっていた。
「おかしい」
コポーは池のほとりにしゃがみ込み、夜空を見上げて首を傾げた。月は丸かった。間違いなく丸かった。ただ、いつもの満月と何かが違う。丸いのに、どこかこぢんまりとしている。大きな器を使っているのに水が少ないような、そんな物足りなさだ。田んぼのあぜ道から聞こえるカエルの声が、今夜はどこか遠慮がちだった。
五月の光が龍神様の湖を白く塗り替えるころ、スパイスの工房の前には小さな騒ぎが起きていた。
「なんだこれ、また誤作動か」
スパイスは舌打ちしながら、工房の壁に取り付けた黒い箱を見上げた。センサーが朝から断続的に揺れ続けている。数値は異常ではない。ただ、規則正しすぎる。
五月の朝露が土手の草を濡らしていた。龍神様の池の水面はまだ少し寝ぼけていて、コポーのポーズを映す光も鈍い。
「くッ……こう、一歩踏み込んでから、腕を広げて! どうだ、これがコポー様の風格だ!」
五月の朝、畑の土から何かがするりと這い出てきた。
コポーが目を細めると、それはミミズだった。昨夜の雨で濡れた地面から、一匹、また一匹と次々に顔を出しては、薄桃色の細い筋を土の上に引いていく。夜明けの光が低い角度で差し込み、ミミズたちの跡が水の珠でうっすらと光って見えた。
五月の午後、しだれ桜の川沿いに白いものが舞い始めた時、スパイスはちょうど新しい受信機の配線を繋ぎ終えたところだった。
工房の作業台に並んだ機械たちが、薄い蜃気楼のような熱を帯びて稼働している。スパイスは汗を拭い、開け放った窓から流れ込む五月の風を吸い込んだ。いつもとは違う、少し甘い風だった。
記録の蔵の窓から、池の光が斜めに差し込んでいた。五月に変わる前の最後の昼下がり。空気はぬるく、どこかに湿り気を含んでいた。
ケロミは楽譜の余白に鉛筆を走らせながら、何度も同じ小節で止まっていた。消しゴムをかける。また書く。机の上には消しカスが小さな丘になっていた。十年後も残る歌を書こうと決めたのは先週だったが、その「書く」という行為が今日はやけに手を縛っていた。
蛙鳴町奇譚:次の誰かへ # 春の霞が池を包んでいた。
龍神様の湖から流れてくる朝の空気はまだほんのり冷たく、コポーは荷物袋を両手に抱えながら石橋の上を小走りで渡っていた。