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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

余った中敷き

古い踏切の警報機が、朝から二度、三度と鳴っては止んだ。電車が来たわけではない。稲の匂いを含んだ強い風が信号の腕木を揺らして、勝手に鳴らしているのだ。駅前広場の石畳の上を、乾いた砂がさらさらと横に流れていく。

「本日、正午。避難訓練を、決行しますっ」

マスクメンが広場の真ん中で、色鮮やかな覆面越しにそう叫んだ。手には自分で書いた紙の束、「正義のヒーロー・心得十箇条」の余白に、避難の手順がびっしりと書き足してある。声はうわずっていたが、覆面の隙間からのぞく目は真剣だった。

「合図が鳴ったら、ホームのキリガミネンのところまで、慌てず、移動。……いいですね」

笛が鳴った。住人たちがぞろぞろとホームへ向かう。その最後尾で、タッチーだけが妙にゆっくりと歩いていた。背筋を伸ばし、長い脚を大きく振って、あくまで優雅に。

「タッチーくん、訓練ですよっ、急いでっ」 「僕はね、どんなときも姿勢を崩さない。それが美学というものさ」

そう言いながらも、タッチーの足元では、サイズの合わない靴がかぱかぱと鳴っていた。急ごうにも、踵が抜けて速く進めないのだ。

ホームでは、避難訓練に参加するわけでもなく、オヒサマが腕を組んで立っていた。マスクメンがふと近づく。

「私はいいの。ここに立っているだけだから。」

けれど、その足元には、ふくらんだ非常持ち出し袋が置いてある。マスクメンが「中身の点検も、訓練のうちですっ」と覗き込むと、乾パンや包帯に混じって、平らな中敷きがもう一組、入っていた。タッチーの靴の大きさに、寸分たがわず合わせて切ったものだった。

「……余ってただけよ。べつに、あの子のためじゃないんだから」

オヒサマはそれを引っぱり出すと、遅れて着いたタッチーの前に、ぽいと放った。風がまた、遠くで踏切の警報機を鳴らした。

余白: 訓練が終わって日が暮れても、キリガミネンの立っていた場所の石畳だけは、ひんやりと冷たいままだった。

【本日の雫】

  • 防災の日: 9月1日は「防災の日」。1923年9月1日に発生した関東大震災にちなみ、1960年に制定された。台風シーズンと重なることもあり、各地で防災訓練や避難訓練が行われる。
  • 二百十日: 立春から数えて210日目にあたる日で、例年9月1日ごろ。古くから台風が多く農作物が被害を受けやすい「厄日」とされ、農家が風を警戒する目安とされてきた。
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