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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

戻ってくるまでが航海

夜明け前の龍神様の湖は、まだ闇と朝の境目に沈んでいた。切り立った北壁が黒々と水面に影を落とし、湖はどこまでも静かに、そして底知れず広く見える。桟橋に舫われた小舟の綱を、ソンチョーが黙ってといていた。

「じいさん、まさか一人で北壁の向こうまで漕ぐ気じゃないだろうな」

血相を変えて駆けつけたモッチーが、丸太のような腕で舟の縁を掴んだ。

「フェっフェっ。往きだけなら、若い頃に何度もやった。だが……戻ってくる方は、この歳になるまで一度も試しちゃおらん」

ソンチョーはシルクハットを桟橋に置き、代わりに古びた麦わら帽子を頭にのせた。世界を股にかけていた頃、旅の相棒だったと以前ぽつりと語っていた麦わら帽子だった。

スパイスが無言で歩み寄り、懐中時計と記録帳を懐から出す。「往路、復路、それぞれの時間を記録する。……無茶はするな」

木陰から飛び立ったハッシーが、上空を旋回しながら声を落とした。

「北壁側の風、今のうちは大人しいが、昼までは保証できんぞ」

「十分だ」

ソンチョーは短く答え、舟を漕ぎ出した。霧の中に小さくなっていく背中を、三人はしばらく見送った。対岸に向かっていったの舟影は、やがて霧に紛れて見えなくなった。

日が高くなっても、湖面には何の動きもない。モッチーが桟橋の端を何度も行ったり来たりし、ハッシーは高度を上げて対岸を探りに飛び立った。スパイスだけが、無言で懐中時計の針を見つめ続けていた。

陽が傾きかけた頃、霧がかった湖の奥から一艘の小舟がゆっくりと戻ってくるのが見えた。ソンチョーの漕ぐ腕は震え、息も上がっていたが、桟橋に着くなり真っ先に麦わら帽子を脱いで、大きく息を吐いた。

「往きは、勢いでどうにでもなる。だが戻りは……己の力だけが頼りじゃったわい」

モッチーが差し出した手を借りて舟を降りながら、ソンチョーはいつになく素直に礼を言った。スパイスは記録帳に往復それぞれの時間を書き込み、その数字をしばらく見つめていた。

余白: その夜、桟橋の杭に干された麦わら帽子を、誰も取り込むのを忘れていた。

【本日の雫】

  • 冒険家の日(8月30日):1965年に同志社大学アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川源流から130kmをボートで下ったこと、1989年に堀江謙一氏が小型ヨット「ミニマーメイド号」で太平洋を単独往復したことにちなんで制定された記念日。
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