夕暮れの池の畔、生ぬるい風がしだれ柳の葉先を揺らすと、水面上に小さな渦がいくつも生まれた。蚊柱だ。無数の羽虫が、誰に指図されるでもなく規則正しく渦を描いている。
「うわっ、また刺された!」 コポーが自分の腕を叩きながら飛び跳ねる。今日ばかりは「カッコいい俺様」のポーズを決める余裕もなく、蚊除けの葉っぱを何本も鼻にねじ込んでいた。
「兄ちゃん、新聞にね、遠い国のお医者さんが蚊のお腹の中から怖い病気のもとを見つけたって書いてあるよ」 ミニコーが広げた紙面をコポーの鼻先に突きつける。コポーは葉っぱをさらに詰め込み、「じゃあ、あいつら全部捕まえて池に沈めてやる!」と息巻いた。
そのとき、頭上をゆっくりと旋回していたハッシーが、羽ばたきひとつで蚊柱のすぐそばまで舞い降りた。コポーもミニコーも思わず身をすくめる——鳥がひとくちで蚊柱を吸い込む姿を、誰もが想像したからだ。
けれどハッシーはくちばしを閉じたまま、ただ翼で風を送っただけだった。蚊柱はふわりと形を崩し、池の奥の暗がりへと流れていく。
「食べない。それが僕なりの『平和の要』だって、前にも言っただろう」 ハッシーは石段に降り立ち、片翼を軽く畳んだ。「刺されるのは困る。けど、いなくなればいいってもんでもない。追い払うだけで、案外足りるもんさ」
「追い払うだけって言っても……」 コポーが半信半疑で腕をさすっていると、工房から駆けつけたスパイスが、廃材のうちわに小さなモーターを仕込んだ即席の送風機を抱えてきた。
「香りの強い草を炙って、風に乗せる。虫を殺さず、遠ざける。ワンヘルスの基本だよ」 スパイスがスイッチを入れると、モーターがぶんと唸り、よもぎの匂いを含んだ風が池の畔に広がった。蚊柱はまた渦をほどき、闇の向こうへ散っていく。
コポーは鼻の下の葉っぱを一本ずつ抜きながら、腕の赤い痕をぼんやり眺めた。「刺されない工夫はできても、刺されないふりはできないんだな」
「痛みごと引き受けて、それでも殺さないでいる方を選ぶ。ハッシーは、ずっとそうしてきたんだと思うよ」 ミニコーがそっと兄の背中をさすると、コポーは葉っぱの最後の一本を池に放り、素直に頷いた。
夜風がよもぎの匂いを運び、蚊柱はもう池の上には見当たらない。ハッシーは石段に座ったまま、暗くなっていく空を静かに見上げていた。
余白: その夜、ハッシーの羽の付け根には、誰にも見せない小さな赤い痕がひとつだけ残っていた。追い払う前に、彼自身が一度だけ刺されていたことに、誰も気づかなかった。
【本日の雫】
- 蚊の日(世界モスキートデー): 1897年8月20日、英国の医学者ロナルド・ロスが蚊の胃の中からマラリア原虫を発見した日にちなむ記念日。