記録の蔵の奥、斜めに差し込む昼の光の中で、スパイスが棚の隅から取り出したのは、飴色に磨かれた小さな木箱でした。蓋を開けると、珠のひとつひとつが丸く艶を帯びた、古いそろばんが眠っています。
「珠が……丸すぎる。まるで新品みたいに滑らかだ」
スパイスがつぶやくと、新聞の束を抱えたミニコーが横から覗き込みました。「うわ、初めて見た。これでどうやって計算するの?」
「はじく。ただそれだけだ。でも――」
スパイスは珠をひとつ、指先でそっと弾いてみせます。パチン、という乾いた音が蔵の中に小さく響きました。「この滑らかさは、何千回、何万回と、誰かがここを撫でた証拠だと思う」
ミニコーは懐中電灯で木箱の底を照らし、小さな刻印を見つけました。「“来た人の数だけ、幸せも数える”……って書いてある」
二人が顔を見合わせていると、桜餅を頬張りながらソンチョーがひょいと顔を出しました。「フェっフェっ、それは先代の宿の番頭が使っておったものじゃろう。旅人が一人来るたびに珠を弾いて、笑っておったそうな」
スパイスは自分の腰に下げたデジタル計測器にちらりと目を落とし、それからまたそろばんの珠に指を戻しました。数字を出すだけなら、こちらの方がずっと速い。けれど、この珠の丸みには、数字にはならない何かが確かに宿っている気がしたのです。
「……これも、記録の蔵に置いていくよ」
スパイスは静かにそう言うと、そろばんを棚の、一番手の届きやすい場所にそっと戻しました。
余白: その夜、ミニコーはこっそり蔵に戻り、自分の分の珠をひとつだけ弾いてから、静かに帰っていった。
【本日の雫】
- そろばんの日: 8月8日は「そろばんの日」。そろばんの珠の形が数字の「8」に似ていることや、末広がりの「八」が重なるおめでたさから、全国珠算教育連盟が1968年に制定した記念日。
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