夏本番の白い陽が差し込む前、蛙鳴町の空気はまだ夜の名残でひんやりとしていました。石橋のたもとに立つ小さな鐘楼で、ソンチョーが古びた綱をそっと握っています。
「フェっフェっ……今日だけは、大きく鳴らさんでおくれ」
囁くように言いながら、ソンチョーは綱を引く手を緩めました。鐘は高く響くことなく、低くくぐもった余韻だけを池の面に伝えます。その響きに誘われるように、遠くの空から一羽の影が舞い降りてきました。ハッシーです。
いつもなら都会のニュースを口にくわえて戻ってくるハッシーですが、今朝は片翼を胸元にそっと畳んだまま、石段に静かに止まりました。年経た翼の骨が、ぎしりと小さく軋みます。
「ソンチョー……今日だけは、何も届けません」
「それでええ。届けるべきものは、もうお主の羽が十分知っておる」
石段の陰から、コポーが小さな折り紙を抱えて顔を出しました。昨夜、ミニコーに手伝ってもらいながら折った、不格好な鶴です。羽の角は揃わず、首も心なしか傾いています。それを鐘楼の欄干に、そっと結びつけました。
「……うまく折れなかったけど、ここに置いてもいい?」
ソンチョーは目を細め、傾いた鶴の首を指先でそっと撫でます。
「歪んでおるからこそ、誰かが必死に祈った証じゃ。まっすぐな祈りなど、この世にはそうそうない」
鐘の余韻が消えたあと、町にはしばらくの静けさが満ちました。ハッシーはやがて翼をゆっくりと開き、朝の光の中へ再び飛び立っていきます。コポーはその羽ばたきを見送りながら、欄干に結んだ鶴が風に揺れるのを、いつまでも眺めていました。
余白: ソンチョーの押し入れの奥には、鞘に納まったまま久しく開かれていない古い剣が、今日もひっそりと横たわっていた。
【本日の雫】
- 広島平和記念日: 8月6日は、1945年に広島へ原子爆弾が投下された日。毎年午前8時15分に平和の鐘が鳴らされ、黙祷が捧げられる。
- 折り鶴: 平和への祈りの象徴として、折り鶴を捧げる文化にちなむ。