夕方の蛙鳴町、駅のホームに置かれた古びた蓄音機が、傾きかけた西日を鈍く弾いていた。真鍮のラッパには、うっすらと埃が積もっている。
「壊さないでよね。記録の蔵から、ようやく借り出してきたんだから」
スパイスは布切れでラッパを磨きながら、ホームの端に佇む白い塊――キリガミネンにちらりと目をやった。その体からじんわりと滲み出るひんやりとした空気が、蝉時雨の熱気を和らげ、蝋管の柔らかい表面がこれ以上緩まないよう、ぎりぎりのところで守っている。
「……なにそれ。声を、閉じ込める箱?」
ベンチに腰掛けていたオヒサマが、興味なさげな声を作りながらも、視線だけは装置から離れなかった。
「昔、誰かが吹き込んだものが、まだ中で眠ってるらしい。試しに聴いてみるか」
スパイスがそっとハンドルを回すと、針の擦れる音の向こうから、幼い笑い声がにじむように響いてきた。誰の声かは、もうわからない。それでも確かに、この町のどこかで生まれた声だった。オヒサマは思わず息をのみ、ラッパにそっと手を添える。
「私も……」
言いかけて、口をつぐんだ。今この機械になら、素直な一言を閉じ込められる気がした。けれど針が下りる直前、喉から転がり出たのは、いつもの憎まれ口だった。
「べ、別に。誰かを待ってるわけじゃ、ないんだから」
蝋管に刻まれたのは、強がりの言葉と、その奥でかすかに震える息づかいだけ。オヒサマは慌ててラッパを押しのけたが、キリガミネンだけが、その震えに寄り添うように、いつまでも冷たい風をそっと送り続けていた。
余白: その夜、蝋管の同じ箇所を、スパイスがこっそりもう一度だけ再生していたことに、誰も気づかなかった。
【本日の雫】
- 蓄音機の日: 1877年のこの日、発明家トーマス・エジソンが蓄音機の特許を取得したとされる記念日。