蝉の声が割れんばかりに響く蛙鳴町の軒先で、コポーは丸めた紙をぎゅっと握りしめていた。明日はいよいよ、龍神様の橋の欄干を磨く「渡り初め」の大役――大勢の前で口上を述べる、コポーにとって一世一代の晴れ舞台だ。
「……ダメだ、頭の中が真っ白になる」
紙を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返すコポーの前に、縁側に腰掛けたソンチョーが、赤く染まった小さな壺をことりと置いた。陶器の縁には、井戸水の冷たさがまだ残っていた。
「フェっフェっ。えらく緊張しておるようじゃの。ひとつ、食べてみるとよい」
壺の中身は、皺だらけの梅干しだった。コポーは恐る恐る一粒つまみ、口に含む。強烈な酸っぱさに顔をくしゃくしゃにしながらも、じんわりと唾が湧いてくる。
「な、なんですかこれ、酸っぱいだけじゃ……」 「昔から言うじゃろう。七の難も、三十数えれば去っていくと。苦いものの真ん中には、ちゃんと固い芯があるものじゃ」
コポーは口の中に残った種を、舌先でそっと転がした。小さくて硬いその感触が、不思議と震える指先を落ち着かせていく。池を渡る夕風が、しだれ桜の葉をさらさらと揺らした。
「……この種、一個分だけなら。勇気、出せる気がします」
ソンチョーは何も言わず、壺からもう一粒取り出し、コポーの手のひらにそっと乗せた。
翌日、橋のたもとに立ったコポーの頬はまだ強張っていた。口上の途中、大勢の視線に足がすくみそうになった瞬間、ポケットの中で握りしめていた種の硬さが指先に触れる。それだけで、不思議と喉の奥から声が戻ってきた。述べ終えるまで、その手はもう震えなかった。
余白: その晩、コポーは種を捨てずに、こっそり自室の窓辺に埋めた。芽が出るはずもないと知りながら。
【本日の雫】
- 梅干しの日:7月30日。「7(なん)」を「30(さる)」――難が去るの語呂合わせにちなみ、和歌山県の梅干し生産者らが制定した記念日。