蛙鳴町の駅前広場は、蝉の声で息苦しいほど賑わっていた。しだれ柳の影に逃げ込むように座り込んでいたのは、麦わら帽子を目深にかぶった女の子だった。膝の上のノートは、まだ一行も埋まっていない。
「あの……何か、お困りですか?」
声をかけたのは、鮮やかな覆面をかぶったマスクメンだった。警備の見回り中、うずくまる背中を見過ごせなかった。だが女の子と目が合うと、覆面の奥で頬が赤くなるのが自分でもわかる。
「テーマが、決まらなくて。都会だと、夏休みの自由研究なんて図鑑を写せば終わりだから」
女の子の声には、諦めのような響きがあった。マスクメンは何か言おうとして、言葉に詰まる。人前で喋る勇気は、いつだって覆面の中にしか隠れていない。
そのとき、二人の足元の土がもぞりと動いた。
「……もう、夏か」
土から顔を出したのは、ペーシャンだった。地中で眠り、「春になる夢」を見る、蛙鳴町の自然の化身。モチモチとした頬に土をつけたまま、ゆっくりと体を起こし、女の子を見上げる。
「わあ……土から、生き物が」
女の子の目に、初めて色が戻った。ペーシャンは何も語らず、ただ土の温度と、龍神様の池の水音に耳を澄ませている。マスクメンはそれを見て、覆面の下でようやく言葉を見つけた。
「図鑑に載っていないものを、書けばいいんです。……このコの、今日の匂いとか、体温とか」
女の子はノートを開き、初めての一行を書き始めた。「7月28日、土からペーシャンが出てきた。あたたかかった」――図鑑には載らない、この日だけの記録だった。
余白: その夜、マスクメンは覆面の裏地に、こっそり「自由研究、応援済み」と刺繍していた。
【本日の雫】
- なにやろう?自由研究の日:7月28日。夏休みの宿題の定番である自由研究に取り組むきっかけにしてほしいと、株式会社ベネッセコーポレーションが制定した記念日。