長い雨が、ようやくその蒼い糸をするすると巻き上げた朝であった。空はにわかに藍から瑠璃へと変わり、入道雲が銀河の縁のようにむくむくと盛り上がっていく。蛙鳴町の裏庭では、竹のザル一面に敷き詰められた梅の実が、ひと月ぶりの陽光を浴びて、ぴかりぴかりと光っていた。塩と紫蘇に漬け込まれ、暗い甕の底で息をひそめていた実たちが、今日という日にだけ、素っ裸で空に会う。それは小さな、小さな夏至祭であった。
「そら、土用干しじゃぞ。梅雨のあいだ、酸っぱさを溜めに溜めた実が、太陽にきりきりと灼かれて、ようやく本当の紅を見せるのじゃ」
ソンチョーが皺だらけの指で、ザルの縁をとんとんと叩く。モッチーはその隣にどっかと座り、大きな掌でひとつひとつの梅をひっくり返していた。裏側にも陽をやらねば片手落ちだ、と信心深い彼はつぶやく。「土のものは、急いては駄目なんだ。……ゆっくり、ゆっくり、な」
蝉がまだ試し鳴きの声を、遠くの森からぽつりぽつりと零していた。潮風とも土埃ともつかぬ匂いが、湿った地面から立ちのぼる。
ふいに、列の真ん中の一粒だけが、他よりも幾らか紅く、まるで最新型の量子演算機が瞬時に弾き出した答えのように、狂いのない球形を保ったまま、しわひとつ寄せずに光っていた。モッチーが指先でそっと触れると、掌にじわりと熱が伝わり、耳の奥で微かな旋律が鳴った。子守唄に似た、けれど誰も教わったことのない節であった。
「……ソンチョー様。この実、歌ってます」
「ほう」ソンチョーがフェっフェっと笑う。「あれはきっと、ケロミの声じゃろう。雨の晩、眠れぬ苗へこっそり歌い聞かせておる。本人は気づいておらんが、その声のひと雫が律儀に、この実へ染み込んだのじゃ」
裏庭の隅で洗濯物を干していたケロミが、話を聞いて頬を赤らめた。「わたし、そんなの歌った覚え、ないよ?」その声は本当に、何ひとつ覚えていないふうであった。
「覚えとらんでよいのじゃ」ソンチョーが遠い目をして呟いた。「本当に良いものというのは、いつも、誰かが気づかぬうちに手渡されておる。風も、雨も、種を運ぶ鳥も、礼を言われようとして働いてはおらぬじゃろう」
モッチーはその一粒だけを甕から分け、記録の蔵の奥にそっと据えた。食べてしまえば消える声だから、と。ザルの上では、残りの梅たちが夕方まで静かに紅く灼けていき、蛙鳴町に長い夏の匂いがゆっくりと満ちていった。
余白: その夜、蔵の暗がりで、誰も触れていないはずの甕の中から、ことり、と一粒だけが転がる音がした。
【奇譚の核(しん)】 ・使用した固有現象または小道具:土用干しの梅(無自覚な声が染み込む「歌う梅」) ・物語の隠されたテーマ(一行):気づかれない優しさほど、静かに実を結ぶ