蛙鳴町の朝は、いつもより潮の匂いがした気がした。もちろん、この町に海はない。あるのは山の奥に横たわる、龍神様の湖だけだ。
「なんでみんな、行ったこともない場所を懐かしがれるんだろう」
コポーは橋の欄干にもたれ、都会の新聞を睨みつけていた。一面には白い波と青い水平線の写真、浮かれた見出しの文字が躍っている。
「海の日、だってさ。僕、海なんて見たことないのに」
ばさり、と羽音がして、ハッシーが新聞をくわえたまま石畳に降り立った。
「都会の浜は、今日は人でいっぱいだったよ。塩の匂いが、翼にまだ染み付いてる」
翼を広げて見せると、確かに潮風の名残のような、かすかな粒が陽に光っていた。かつて空を統べていた者の翼は、今は誰かに何かを届けるためだけに動く。
しだれ桜の下で古い航海日誌をめくっていたソンチョーが、フェっフェっと笑った。
「海か。儂も昔、幾つもの海を渡った。荒れる波も、凪いだ夜光虫の海も見た。じゃがな、コポーよ」
ソンチョーは日誌を閉じ、竹竿の先で湖のほうを指した。
「あの湖の水も、川を下って、いつか必ず海に注ぐ。お主が見たことのない海は、今この瞬間も、あの水面のどこかと繋がっておる」
コポーは半信半疑のまま、湖のほとりまで駆けていった。水面に手を浸すと、山からの雪解け水はひやりと冷たく、ざらついた小石が指先をくすぐる。目を閉じると、遠い波音が聞こえた気がした――それはただの風の音だったかもしれない。
「……気のせいでも、いいか」
コポーは濡れた手を陽にかざし、水滴が一粒、光りながら落ちていくのを見送った。
余白: ハッシーの羽の隙間に、都会の浜辺の砂粒がひとつ紛れ込んだままだったことに、本鳥はまだ気づいていない。
【本日の雫】
- 海の日: 7月の第3月曜日に定められた国民の祝日(2026年は7月20日)。海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う日。