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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

二人だけの北壁

龍神様の湖の最奥、切り立った岩肌は昔から「北壁」と呼ばれ、代々の力自慢の男衆だけが挑む修行の場とされてきた。誰も気にも留めない、ただの古い言い伝えのはずだった。

「……今年こそ、誰も聞いたことのない歌を届けたいの」

夜明け前の霧の中、ケロミは岩の根元でそっと喉を鳴らしていた。天候さえ変えるという歌声も、届く先がいつもの広場ばかりでは、いつまでも伝説にはなれない気がしていた。冷たい岩肌に触れると、指先から霧の湿り気がじんわりと伝わってくる。

「あんたが行くなら、あたしも行く。……べ、別に付き合ってあげるだけなんだから」

ぶっきらぼうに現れたのはオヒサマだった。誰も見ていないところで手を貸すくせに、素直に「応援したい」とは決して言わない。腰には、蔵の奥で見つけたという年季の入った縄が巻かれていた。

二人分の軍手と水筒を抱えたモッチーが、岩陰からのそりと姿を見せた。

「男衆しか登っちゃいかんなんて、誰が決めただ。……この土も苗も、時間をかけりゃ、ちゃんと芽を出すもんさ」

千里眼を代償にした細い目を、モッチーは珍しく力強く見開いていた。

湿った岩肌に指をかけ、ケロミとオヒサマは一歩ずつ登り始めた。足を滑らせかけたオヒサマの手を、ケロミがとっさに掴む。

「大丈夫、落ちても私が受け止める……なんて、嘘。二人で落ちるだけね」

「ちょっと、笑い事じゃ……でも、頼りにしてる」

下で見守るモッチーの太い腕が、いつでも受け止められるようにと、ずっと岩壁の真下から離れなかった。

朝霧が晴れていくと同時に、二人は北壁の頂に立っていた。見下ろす龍神様の湖は、誰も知らない角度で朝日を弾いている。

ケロミが小さく息を吸い、初めての景色に向かって声を放つと、湖面がさざ波のように震えた。オヒサマはその隣で、柄にもなく涙ぐみながら、精一杯の拍手を送った。

余白: その日の夕方、モッチーは北壁のふもとに若木を一本植えた。二人の足跡を覚えていられるように、そして芽が出る頃にはまた誰かが挑戦しているようにと。

【本日の雫】

  • 北壁の日: 1967年7月19日、東京女子医大山岳部の今井通子と若山美子が、世界で初めて女性だけのパーティでマッターホルン北壁登頂に成功したことにちなむ記念日。
  • 女性大臣の日: 1960年7月19日、中山マサが第一次池田内閣の厚生大臣に就任し、日本初の女性大臣が誕生した日。