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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

蛙鳴町奇譚:月渡り、スイングバイの一席

さて、蛙鳴町にゃ外の道理じゃちょいと量れねえ話ってのが、ちょくちょくあるんでござんす。今宵はそのひとつ、龍神様の湖にまつわる「月渡り」の一席、しばしお付き合いのほどを。

満月の晩、湖はやけに息を潜めておりやした。水面に落ちた月影がひとつだけでっぷりと膨らんで、ぐらりぐらりと脈打っている。蛙の合唱がぴたりと止み、藻の匂いを含んだ夜風だけが、しだれ桜の葉をさわさわと撫でておりやした。

「へへっ、こいつぁ面白え見世物じゃねえか」

祠から失敬してきた小舟の舳先に、コポーが仁王立ち。狙うは月影のへり、そのぎりぎりのきわどいところでござんす。

「よしなって言ってんだろ、この向こう見ずの兄貴め。舟ごと湖の底に沈んじまったらどうすんでえ」

袖を引く弟のミニコーを「なあに、度胸試しよ」と笑い飛ばしたところへ、片手に妙な計器をぶら提げて駆けつけたのが、工房のスパイス。

「爺さん連中は"月渡り"なんて呼んでたが、あたしゃこいつぁ立派な軌道力学だと睨んでらあ。天体の脇をかすめて重力を借りて加速する……お天道様の上をゆく機械仕掛けの連中がよくやる、スイングバイってやつよ」

「すいんぐ……なんでえ、そりゃ」

「知らねえで結構。とにかく月影の一番きわどいところを回りゃあ、その分だけ勢いがつく理屈だ。加減を間違えりゃ、湖の底まで真っ逆さまだぜ」

野暮な講釈は聞くだけ野暮とばかり、コポーは棹を突き、月影のへりへ舟を滑り込ませた。ぐるりと水面が唸って、五臓六腑がふわりと浮くような心地がしたと思ったら、舟は弾かれたように加速する。目の前が白く霞んだと思ったが最後――気がつきゃコポー、見知らぬ都会のビルの谷間、名も知らぬ橋の下に舟ごと転がっておりやした。

呆然と町へ戻ったコポーの懐には、覚えのねえ紙包み。開きゃ中から出てきたのは、誰かの忘れ物らしき古い懐中時計がひとつ。

「ほうほう、無事で何よりじゃのう」

しだれ桜の下、ソンチョーがフェっフェっと笑っておりやした。

「異国の湖にも、似たような言い伝えが残っておる。星も舟も、大きなものの傍らをかすめる時にだけ、思わぬ力を授かるものよ。おぬしも月影の傍をかすめたおかげで、こうして無事に戻れたんじゃろうて」

コポーは懐中時計をそっと耳に当ててみた。針はぴたりと止まったまんまなのに、こつこつと小さな音だけが、確かに時を刻んでおりやした。

……とまあ、これにて一席、お後がよろしいようで。

余白: その夜以来、湖の月影は満ちる前から、舟ひとつ分だけ欠けたままである。

【奇譚の核(しん)】 ・使用した固有現象:龍神様の湖に伝わる「月渡り」=月影のへりをかすめて加速するスイングバイ現象 ・隠されたテーマ:大きなものの傍らをかすめてこそ、思わぬ力を授かるという寓意