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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

小さなしるし

駅前広場の水飲み場に、手のひらほどの小さな木の板がぶら下がっていた。

表面には、炭で無造作に描かれた、水を噴き出すカエルの絵。下手くそだが、どこか愛嬌がある。

「ふふ、可愛い」

木陰のベンチでヨガの呼吸を整えていたビピクは、その板を指先で揺らした。

都会のスタジオでカメラの前に立つ時、彼女は完璧な微笑みを求められる。けれど、この木漏れ日の中で揺れる素朴な落書きは、不思議と彼女の心をほぐしてくれた。

広場を見渡すと、他にもいくつかの「しるし」が見つかった。掲示板の端には、目が点になった驚き顔。しだれ桜の道の手前には、雨雲を載せてしょんぼりとした顔の板。言葉は一切ない。ただ、小さな感情のカタチだけが置かれている。

「あ、マスクメン」

広場の向こうから、色鮮やかな覆面をつけた警備隊員が歩いてきた。夏の強い陽射しの下、マスクの中は暑いはずだが、彼は背筋を伸ばして巡回している。

呼びかけると、極度のシャイな彼はびくっと肩を震わせて後ずさりした。

「……び、ビピクさん。警備、異常なしです」

「ねえ、これ。あなたが置いたの?」

ビピクがカエルの板を指差すと、マスクメンは慌てて後ろ手に何かを隠そうとした。だが、指の間から炭のついた木切れがこぼれ落ちる。

「あ……僕は、言葉で伝えるのが苦手だから……」

マスクメンはもじもじと覆面の紐をいじった。「暑いから水を飲んでとか、道がぬかるんでるとか、上手く言えなくて。だから、気持ちだけでも、と」

彼は手の中に残った最後の板を見せた。そこには、口の両端を上げた満面の笑み。線は歪んでいるが、彼の温かい手のぬくもりと、誰かを守りたいという純粋な願いが宿っていた。

「素敵ね」

ビピクは微笑み、いたずらっぽく目を細めると、その板の笑顔を真似て、少しだけぎこちなく口角を歪めて見せた。「どう? 似てる?」

完璧ではない、少し歪んだ笑い顔。マスクメンは一瞬目を見張り、それから、マスクの奥の瞳を和らげて小さく噴き出した。「ええ、とても……温かいです」

しだれ桜の根元で寝ていたモチモチのペーシャンがむくりと目を覚まし、二人を見て「ほぅ」と満足げに息を吐く。その丸い顔もまた、のどかな「しるし」のようだった。

青空の下、三人の影が、温かい笑い声とともに静かに重なり合っていた。

余白: 夕暮れ時、マスクメンのポケットには、ビピクがいたずら書きした「完璧ではないけれど、とても嬉しそうな顔」の木切れがしまわれていた。


【本日の雫】

  • 世界絵文字デー: 毎年7月17日は、iOSのカレンダー絵文字に表示されている日付(7月17日)にちなんで制定された記念日。言葉の壁を越えて感情を伝える「絵文字(Emoji)」を祝う世界的なイベント。