夏の強い日差しが、蛙鳴町駅の古いトタン屋根を焦がしていた。 ホームのベンチでは、白くまのキリガミネンが静かに目を閉じ、その周囲だけ冷んやりとした川霧のような涼風が漂っている。
「……よし。これでぴったり、百三十五度だ」
脚立の上で、スパイスが真鍮の懐中時計を片手に、駅の壁掛け時計の針を回していた。彼の手元のガジェットは、はるか都会の電波を受信して、一秒の狂いもなく時を刻んでいる。 今日は日本標準時が制定された日。効率と正確さを愛する技術者として、スパイスはこの日を機に、町の時間を「正しく」揃えようとしていたのだ。
「フッ、スパイス。そんな機械仕掛けの数字に縛られて、美しさを忘れていないかい?」
ホームの端で、タッチーがすっと片脚を上げ、完璧な角度で静止した。サイズ違いの靴のなかのインソールを密かに踏み締めながら、彼は風を切るようなキザな笑みを浮かべる。
「僕がこうしてポーズを決める間、この町の時間は僕の美学に従って流れるのさ。秒針の音なんて野暮じゃないか」
「お前のポーズのせいで電車が遅れたらどうするんだ」
スパイスがため息交じりに言い返したその時、踏切の警報機が鳴り響いた。時刻表より、丸々三分も早い。 緑色の小さな一両列車が、キーッと車輪をきしませてホームに滑り込んでくる。運転士は窓から顔を出し、「おーい、モモが安かったから買ってたら、少し早めに出発しちまったよ!」とのどかに笑った。
スパイスは呆然と懐中時計を見つめた。 その時、キリガミネンがふっと鼻を鳴らし、ゆっくりと寝返りを打った。彼から放たれた涼しい風が、ホームにたまった熱気とスパイスの額の汗をさらりと拭い去っていく。
懐中時計の無機質なチクタクという音が、風の音と列車の気だるいアイドリング音に溶けていく。 スパイスは脚立を下り、時計の文字盤のガラスをそっと撫でた。
「……まあ、この町にはこの町の秒針がある、ということか」
真新しい真鍮の時計は、標準時から三分ずれたまま、夏の光を反射して静かに動き続けた。
余白: スパイスの工具箱の隅には、タッチーの「美しく見える静止ポーズの限界時間」が記されたメモが隠されていた。
【本日の雫】
- 日本標準時制定記念日:1886年7月13日に「本初子午線経度測定及標準時ノ件」が公布され、東経135度(兵庫県明石市を通る)が日本の標準時と定められたことに由来する。