蒸し暑い夜、龍神様の池のほとりにスパイスの工房の灯りが揺れていた。真空管が桃色に息づく手製の無線機——「試作三号」——の準備が整うのを、コポーは油紙に包んだ台本を抱えて待っていた。
「見ろよミニコー、これが今夜の台本さ。『蛙鳴町のみんな、この声に胸を撃ち抜かれるなよ』から始まって——」
「兄ちゃん、その台詞、この間も聞いたよ」
ミニコーが新聞を畳みながら苦笑した。スパイスがつまみを回すと、赤いランプが灯る。
「本放送、開始する」
スパイスの合図とともに、コポーはブリキの筒を握った。台本の一行目を読み上げようと口を開きかけて——ふと、池の向こうに、今日の畑仕事を終えた住人たちが道端で足を止め、こちらへ耳を傾けている気配がした。
台本の文字が、急に安っぽく見えた。
「……えっと。台本、やめます」
ミニコーが驚いて顔を上げた。コポーは油紙をぐしゃりと丸め、懐にしまった。
「今日はラジオが初めて生まれた日らしいです。声だけで、遠くの誰かに何か届けられるって知って、僕、実はちょっと緊張してます。かっこいい台詞、たくさん考えてきたんですけど……。それより、今日も一日、お疲れさまでした。明日もいい日になりますように」
短い沈黙のあと、町のあちこちから、ぽつり、ぽつりと窓の開く音が聞こえた。誰かが小さく手を叩いたような、そんな気もした。
コポーは頬を赤くしながら、丸めた台本をポケットの奥に押し込んだ。
「……次はちゃんと、面白いことも言うから」
ミニコーは何も言わず、ただ小さく頷いた。
余白: ぐしゃぐしゃに丸められた台本は、その夜のうちにコポーの部屋の抽斗にしまわれ、次の朝には新しい一行が書き足されていた。
【本日の雫】
- ラジオ本放送の日:1925年7月12日、東京放送局(現在のNHK)が日本で初めてラジオの本放送を開始したことに由来する記念日。声だけで遠くの人々に情報を届ける、新しい時代の幕開けとなった。