梅雨明けの朝、龍神様の湖の浅瀬に、一本の喇叭(らっぱ)が逆さに突き立っていた。朝顔のように大きく口を開き、細くなる胴は水底のさらに奥へと、目で追えぬほど遠くまで伸び細っている。誰が置いたわけでもないのに、住人たちはそれを、昔からそこに在ったものとして受け入れていた。
「妙だな」スパイスが工房の計測端末をかざし、眉を寄せた。「口径は測れる。だが先端が——スキャンのログが、いつまで走らせても埋まらん。距離が、収束せんのだ」
コポーが得意げに枡を抱えてきた。「じゃあ僕が水を入れてやるよ。あふれさせて、女の子たちを驚かせるのさ」
澄んだ湖水を注ぐと、喇叭はやがて静かに満ちた。ちょうど枡一杯、それきり一滴も余さず飲み込んで、水面はぴたりと止まる。「なんだ、ただの器か」とコポーは拍子抜けした。
「ならば、だ」コポーは腰の金色スプレーを抜いた。自分の像を輝かせる、あの得意の一吹きである。「内側を金メッキして、伝説の喇叭に仕立ててやる」
ところが、幾度吹きつけても内壁は塗り終わらない。一缶が空になり、スパイスが工房から抱えてきた予備も尽き、それでもなお、遠ざかる胴の奥には塗り残しの闇が続いていた。「満ちる……のに、覆えない」コポーの手が、途方に暮れて止まった。
しだれ桜の下で、ソンチョーがフェっフェっと笑った。「満たすと飾るは、別の話じゃよ。中身は一杯にできても、表面は永久に塗り尽くせぬ。器の背丈は有限、されど肌は果てがない。……人の想いと、よう似ておる」
夕暮れ、通りかかったケロミが、そっと口を近づけて息を吹き込んだ。細く澄んだ歌が胴の奥へ吸い込まれ、いつまでも、いつまでも先端へは届かず、遠くで小さくなりながら鳴りやまなかった。「あら、まだ響いてる」とケロミは首をかしげる。その音の終わりを聞いた者は、ついに誰もいなかった。
翌朝、喇叭は湖に沈んで消えていた。あとに残ったのは、コポーの白紙のノートに落ちた、金色の指の跡がひとつだけ。彼はそれを消さずに、そっと閉じた。満たせるだけで、いいのかもしれない、と小さく呟いて。
余白: スパイスの記録では、注いだ水は毎度きっかり枡一杯で止まる。だが使った金色スプレーの総量だけは、測るたびに前より増えていた。
【奇譚の核(しん)】 ・固有現象:龍神様の湖に現れる「トリチェリの喇叭」——満たせる容積は有限だが、覆うべき内壁は無限に続く。 ・隠されたテーマ:想いは、注ぎ尽くせても、飾り尽くすことはできない。