メインコンテンツへスキップ
  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

小さき器の余香

七月の強い陽射しが、駅の線路をゆらゆらと陽炎のように揺らしている。

うだるような熱気がホームを包む中、改札口に近い木製のベンチの周りだけは、不思議と澄んだ冷気に守られていた。ベンチの端で、白くまのキリガミネンが静かに立ち尽くしている。彼が白い息をすっと吐き出すたび、風鈴の音のように涼やかな風がホームを吹き抜けた。

そのベンチのもう一端で、ソンチョーが小さなアルコールストーブに火をかけていた。傍らには、かつての冒険旅行で東洋の山奥から持ち帰ったという、手のひらに収まるほど小さな赤褐色の素焼きの急須が置かれている。

「おや、ビピク。そんなに肩を張っていては、夏の熱気より先に体が参ってしまうぞ」

ソンチョーが「フェっフェっ」と笑いながら声をかけた。

ホームに降り立ったビピクは、つばの広い麦わら帽子を手で押さえ、ほっとしたように足を止めた。「完璧な姿勢」を維持し続ける彼女の額には、かすかな汗の粒が光っている。都会の華やかなスポットライトと、それに伴う「完璧でいなければ」という見えない重圧に、彼女の心は少しばかり乾いていた。

「ソンチョー、こんなに暑い日に、温かいお湯を沸かしているの?」

「こればかりは、冷やしては台無しになるからのう。さあ、座りなさい」

ソンチョーは手際よく、急須の湯を細長い器と、丸く小さな器へと交互に注ぎ分けた。そして、お茶の入っていない、ただ温まっただけの細長い器をビピクに差し出した。

「飲む前に、まずはこの香りを嗅いでごらん」

ビピクが訝しげにその小さな器を鼻先に近づけると、目を見張った。器の中は空っぽなのに、蘭の花のような、そして雨上がりの深い森のような、甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐったのだ。

「不思議……お茶が入っていないのに、こんなに強く香るのね」

「中国茶の聞香杯というものじゃよ。器が小さければ小さいほど、その奥に残る残り香は長く留まる。目に見えるものが消えた後にこそ、本質が漂うこともあるのさ」

ソンチョーは「フェっフェっ」と笑い、今度は丸い品茗杯にお茶を注いで手渡した。

ビピクがそっと口に含むと、心地よい苦味の奥から、じんわりと温かい甘みが喉を潤していった。温かいお茶のはずなのに、不思議と胸のつかえがすうっと晴れ、キリガミネンが運ぶ涼風がいつもより優しく肌を撫でるように感じられた。

急須の蓋を開けると、小さく縮こまっていた茶葉が、お湯の中でゆったりと四方に葉を広げ、本来の不揃いな姿に戻っていた。

「綺麗ね。最初はあんなに固く丸まっていたのに」

「茶葉も人間も同じじゃ。熱いお湯の中でこそ、自分をほどき、隠していた香りをすべて分け合える。綺麗に整っていることだけが美しさではないのじゃよ」

ビピクは茶葉を見つめ、いつものカメラの前で見せる作り込まれた微笑ではなく、柔らかく飾らない笑顔をこぼした。

「そうね……少しだけ、自分をほどいてみようかしら」

駅の向こうから踏切の警報音が聞こえ始める中、キリガミネンがふっと吐き出した白い息にのって、蘭の甘い香りが線路に沿ってゆっくりと広がっていった。

余白: ビピクが持ち帰った小さな器からは、夕暮れの部屋になってもなお、遠い山の風の匂いがほのかに漂い続けていた。

【本日の雫】

  • 中国茶の日:NPO法人日本中国茶協会が制定。「チィ(7)おちゃ(8)」の語呂合わせから。中国茶の作法では、茶の香りを楽しむための縦長の「聞香杯(もんこうはい)」と、飲むための「品茗杯(ひんめいはい)」が使われる。
  • 猛暑(もうしょ)の警戒:7月に入り全国的に気温が上昇し、各地で猛暑日や熱中症への注意が呼びかけられる季節。