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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

蛙鳴町奇譚:虚数影の幻燈

ひえびとした青い七月の、しめり気ある銀河の底の夜でした。蛙鳴町の古い踏切のそばには、背の高いシラカンバの木々が立ち並び、その葉は真空からこぼれた青い燐光をあびて、サラサラと冷たい金属のように擦れ合っていました。遠くの龍神様の湖から吹いてくる風には、かすかな薄荷の匂いと、大気電気の放電によるオゾンの香りが混ざり合っています。

「ごらん、コポー兄さん。今夜の水銀灯は、なんだか代数学の教科書にある、あの不思議な虚数(イマジナリイ・ナンバア)の匂いがするよ」 ミニコーは、すこし錆びた真鍮のインジケーターを、またたくプレアデスの光にすかしました。プラットホームの錆びたレールと青いシグナルが、夜の冷たい水蒸気と龍神様のしずくに反射して、網膜の裏側に奇妙な三次元のスペクトルを描いていたのです。

そこへ、金色のスプレー缶を握ったコポーが、ドタドタと足音を響かせてやってきました。 「何だいミニコー、ぼくの素晴らしいポオズを照らすのに、こんな陰気な水銀灯なんかじゃ足りないや。もっとギラギラしたシリウスの光か、百億ボルトの稲妻でなくちゃ!」 しかし、コポーが線路のそばのランプの下に足を踏み入れたとき、奇妙なことがおこりました。 アスファルトの地面の上に、コポーの影がまったく落ちなかったのです。 代わりに、コポーの濡れたつま先から、垂直の夜空へと向かって、ぼんやりとした青りんご色の、透き通った光の帯がたちのぼりました。それは、自乗するとマイナスの領域へ滑り込んでしまう、この実在の世界には居場所のない「虚数影(きょすうえい)」でした。

「おい、コポー! そこから一歩も動くな!」 スパイスが、魔改造したスペクトル解析器と、青いダイオードが明滅するたくさんの電線を引きずりながら、闇の中から飛び出してきました。 「そのエリアの空間判別式はマイナスだ。お前の影は虚数平面の特異点へ滑り込んでいる。これ以上進めば、お前の質量そのものが複素数に変わり、この世界のタイムラインから自乗消去されてしまうぞ!」 コポーはぎょっとして立ちすくみました。自分の手足は確かにそこにあり、大地の匂いもするのに、影だけが届かない天の川の星々を指し示し、リンリンと冷たいガラスの風鈴のような音を立てて震えているのです。 「そんなの嫌だ! ぼくの影、戻ってきておくれ!」 コポーが泣きそうな声をあげたそのとき、駅のベンチで黙ってハッカ飴を口の中で転がしていた白くまのキリガミネンが、音もなく立ち上がりました。

キリガミネンは、影を持たないその白い前足をそっとのばし、コポーの虚数影がたちのぼる青い光の帯に触れました。すると、冷たい指先が虚数の境界をかき乱したのか、青い影は、まるでつめたい炭酸水の気泡のようにキリガミネンの中に吸い込まれていきました。同時に、コポーの足元には、いつもの泥臭くて不器用なカエルの影が、ふたたび地面にぺたりと張り付きました。

「ふう、助かった……。やっぱり、ぼくにはこの地面の泥の影が一番似合うや」 コポーはほっと胸をなでおろし、地面の影に向かって、得意げにポオズを決めてみせました。

余白: 駅前広場の古い和音壁は、その夜、誰の発した音でもない「i」の周波数を微かに響かせていた。

【奇譚の核】 ・使用した固有現象または小道具:虚数影(自乗すると実数の世界から消え、虚数平面に立ち上る影) ・物語の隠されたテーマ:目に見える存在(実数)と、目に見えない祈りや感情(虚数)の共存。