メインコンテンツへスキップ
  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

八本足の祈り

七月の田んぼは、熱と泥と青い匂いに満ちていた。

「コポー、もう一束だ」

モッチーの声は、いつも命令より確認に近い。コポーは「う……」と唸りながら泥に踏み込み、早苗の束を受け取った。ズブリ、と足首まで沈んだ。思っていた以上に深かった。

「ちょっと待ってください、こんなに泥が……ケロミちゃんに見られたら……」

「それより、そこの苗を五センチ右に」

「聞いてます!?」

モッチーは聞いていなかった。どっしりとした巨体が田んぼを移動するたびに、水面が柔らかく揺れた。コポーは仕方なく苗を五センチ右に差した。根を土の中に押し込むと、指先に泥の冷たさが届いた。

昼前にようやく終わった。作業小屋の土間で大の字になると、竈の前でソンチョーが静かに湯気に向き合っていた。

「ようやく来たか。今日は半夏生じゃ。まず手を洗え」

うどんだった。太くて不揃いで、一口食べるたびに土の甘さが舌に残った。コポーは汁をすすりながら、窓の外の水田が光を照り返しているのを見ていた。

「なんでうどんなんですか」

「農家が、田植えを手伝ってくれた者に振る舞う習わしじゃ。稲の根が土の中で広がる頃に合わせてな」

「根……」

「タコの足のようにな。八方へ、誰にも見えない場所で、静かに、深く」

ソンチョーは湯飲みを両手で包んだ。

「土の下でやっておることが、秋の実りを決める。稲だけの話ではないがの」

コポーは箸を止めた。今朝から誰一人見ていなかった。泥まみれで、格好なんてまったくなかった。ケロミちゃんどころか、ハエだって見向きもしなかった。

でも、根のことを考えると、なんとなく腹の底まで温かい気がした。

モッチーが「おかわり」と言った。ソンチョーが「フェっフェっ」と笑った。田んぼの向こうで蝉がやかましく鳴き始め、七月の昼が高くなっていった。

余白: その夜、コポーは白紙のノートに「八本足作戦」と書き、一行目で手が止まった。


【本日の雫】

  • 半夏生(はんげしょう):夏至から数えて11日目頃に訪れる雑節。2026年は7月2日。稲の根がタコの足のように大地へ広がることを願い、タコやうどんを食べる風習が各地に伝わる。香川県ではうどん、福井県ではサバが振る舞われる。
  • 一年の折り返しの日:7月2日は1年365日の183日目にあたり、前半が終わり残り182日となる折り返し地点。