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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

茅の輪のむこう

梅雨の最後の雫がまだ草の先に残る夕暮れだった。

龍神様の祠の石段の下に、茅の輪が立っていた。青草を編んだ輪はビピクの肩幅の三倍ほどもあり、夕霧の中にぼんやりと浮かんでいる。傍らの竹籠には白い紙の人形が几帳面に折り重なっていた——形代だ。半年に一度、この日の夕暮れに、祠へ向かう道を住人たちが歩いていく。

ビピクは一枚手に取り、池のほとりの岩に腰を下ろした。

筆先をあてがった。

半年分を書けばいい、と誰かに聞いた。半年分の澱を形代に移して、水に流す。だが何を書けばいいのか、今日になってもわからなかった。「完璧でなければ」という重みが澱なのか、それとも「完璧に見えなければ」という焦りの方が本当の澱なのか。二つは同じようで、どこかが決定的に違う気がした。

筆が止まったまま、六月の空が橙色になった。

踏切の向こうのホームから、ひんやりとした空気が届いてきた。

キリガミネンが、夕暮れの端に立っていた。白い毛並みが橙色に染まっていたが、その体からは夏を一枚押し戻すような冷気が漂っている。蛙鳴町の駅のホームにはいつもキリガミネンがいる。言葉を発するわけでも、手招きをするわけでもない。ただそこにいて、駅の空気をゆるやかに冷ました。

その冷気が、今夜は祠のある丘まで届いていた。

ビピクは形代を手に立ち上がった。

茅の輪の前に立ち、左へ踏み出した。輪の右側へ回って戻り、輪の左側へ回ってまた正面に戻る。三周。青草の匂いが、回るたびに胸の奥まで入ってきた。

池に形代を浮かべた。何も書かなかった形代が、水面に触れた瞬間に静かに広がった。水が紙を受け取るみたいに、じわりと滲んで、沈んでいった。

空の端が紺に変わり、東の山の稜線から月が上がった。六月最後の夜の満月だ。池に映った月が、水面の揺れに合わせて伸びたり丸くなったりを繰り返した。

キリガミネンはまだホームに立っていた。その白い背中に月光が真上から落ち、一瞬だけ輪の形に見えた——ちょうど今夜ビピクがくぐった、あの茅の輪のような形に。

余白: 翌朝、祠の石段には、もう一組の形代と筆が置かれていた。筆の先は、まだ乾いていなかった。


【本日の雫】

  • 夏越の祓(なごしのはらえ): 6月30日に行われる神道の祓えの行事。茅の輪をくぐって前半年の穢れを落とし、形代(ひとがた)に息を吹きかけ水に流す「人形流し」が各地の神社で行われる。
  • 満月: 2026年6月30日は望月(まんげつ)の夜。六月の満月は北米の先住民族の暦で「ストロベリームーン」とも呼ばれる。