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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

なつかせ方、知らないけど

六月の夕暮れ、池のほとりに生えた柳の根元で、オヒサマは膝を抱えてしゃがみ込んでいた。

水面にはぼんやり空が映り、橙と藍が混ざり合っている。一羽の鳥が遠くを横切り、それだけが動いた。

「——別に、誰かを待ってるわけじゃないから」

独り言は柳の葉にすぐ吸われた。

ドタドタという足音が近づいてきたのは、しばらくして。コポーが草むらをかき分け、息を切らして姿を現した。手には一冊の本が握られている。表紙はくたびれていて、小さな星に立つ男の子の絵が描かれていた。

「——あ、いた。ねえ、これ知ってる? 記録の蔵の一番奥の棚に」

「何の用」

「今日、この本を書いた人が生まれた日らしくて。ミニコーが教えてくれたんだけど、すごく薄いのになんか変な本で」

「読んだことあるから説明しなくていい」

「え——」コポーは止まった。「どこが好き?」

オヒサマは黙った。池の水面を睨んでいた。

「……キツネのところ」

「わかる! 毎日同じ時間に来てくれると、その時間が特別になるやつ——」

「だから、なつかせるって言うんだって、キツネが。人は矢と銃を持ってるから怖いって。でも——」

オヒサマは膝の上で指を組んだ。

「——もし誰かに近づいてきてもらえたら、そのうち世界に一匹だけになれるって」

コポーは黙って、池の縁に腰を下ろした。本を閉じ、草の上に置く。しばらく、どちらも何も言わなかった。

夕暮れが深くなり、柳が影になった。

「……ここ、いていい? 何もしないで」

「あたしが決めることじゃないし」

「じゃあいる」

「……勝手にして」

でも、オヒサマは立ち上がらなかった。

六月の風が本のページをそっとめくり、夕方の池の匂いがした。

余白: 翌日の同じ時間、コポーが来る前から、オヒサマはもうそこにいた。

【本日の雫】

  • 星の王子さまの日:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの誕生日(1900年6月29日)に由来する記念日。「大切なものは目に見えない」というキツネの言葉が今も世界中で読まれている。
  • ウィンブルドン開幕:6月29日からロンドンで世界最古のテニストーナメントが開幕。白いウェアと緑のコートの夏が始まる。

【本日のモチーフ:2026年06月29日】
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星の王子さまの日。サン=テグジュペリが1900年6月29日に生まれたことに由来する。「キツネのなつかせ方」の場面——毎日少しずつ近づいて、相手に「あなたは世界に一匹だけ」になる——は、臆病な者同士のコポーとオヒサマの関係性にそのまま重なった。ウィンブルドンも同じ日に開幕し、「白い球が行き来するコート」の静けさも、二匹のあいだに流れる沈黙に溶け込んだ。