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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

必勝の夜

蛙鳴町の梅雨が、ようやく明けかかった夜だった。

スパイスが工房の前に張り出した布スクリーンには、地球の反対側の都市——ヒューストン——の夜景が、青白い映像で映し出されていた。その地名をコポーは鉢巻きに書こうとして、字が多すぎて諦め、代わりに「必勝」と太く書いた。インクがにじんだ。

「相手はブラジルだぞ」ミニコーが、折り畳んだ新聞を腹に抱えながら静かに言った。グループFを二位で抜けたとき、兄が「やったぞ」と騒ぐ横で、ミニコーは次の対戦相手の名前を声に出さなかった。その答えを、今夜まで黙って胸に仕舞っておいた。

「知ってる」コポーは努めてさりげない声を作った。「だから俺が応援するんだ。天下の英雄が蛙鳴町から気合を飛ばせば、地球くらい余裕で越える」

胃がずっと痛かった。スウェーデン戦の翌日から、ずっと。

広場の端から、マスクメンが現れた。普段より一回り大きな日本代表の旗を胸に抱き、少しだけ足取りが重かった。

「……一緒に、見ていいか」

「座れ」コポーは振り向かずに言った。

スクリーンの前に、三人分の影が並んだ。梅雨上がりの夜風が池の水面をさざ波に変え、龍神様の祠の奥から低い鈴の音がひとつだけ響いた。その音は夜気に溶けて、遠いヒューストンまで届くような気がした——それは多分コポーの思い込みだった。それでも、そう思った。

「負けても」スパイスがスクリーンを微調整しながら、誰に言うともなく呟いた。「一緒に見ていたことは、ちゃんと残るんだ」

コポーは黙って、鉢巻きをもう一度、少しきつく結び直した。

余白: 試合が終わった後、マスクメンはマスクを外さないまま、旗をそっと広場のしだれ桜の幹に結びつけて帰った。

【本日の雫】

  • ワールドカップ2026・日本代表決勝トーナメント進出:グループFでスウェーデンと1-1で引き分けてグループ2位通過。ラウンド32でブラジルとヒューストンで対戦が決定。
  • 日照権の日:1972年6月27日、日本で初めて「日照権」が法的に認められた判決が下された日。