薄暮の記録の蔵に、タッチーは忍び込んだ。
正確には「忍び込んだ」というより、脚のあまりの長さゆえに鴨居をまたぐ動作が、傍目にはどうにも怪しく映るのである。
蔵の奥、古文書の山の向こうに、黒漆塗りの大鏡があった。縁の彫刻は龍神様の鱗を象り、緑と黒とが渾然と鈍い光を溜めている。
「フン。この長い脚の美しさは、いかなる鏡に映しても完璧というものだ」
タッチーは得意の「横向き四十五度ポーズ」を取り、鏡面を覗いた。
異変に気づいたのは、三秒後だった。
鏡の中のタッチーが、右手ではなく、左手を腰に当てていた。
鏡に映るものは左右が反転する。それは自明の理だ。だが——右手を腰に当てたならば、鏡の中では左手が腰に来るはずではないか。
「……待て」
「左手が腰に来るはずですね」
背後から、声がした。
振り返ると、キリガミネンが蔵の入口に佇んでいた。その巨躯から漂うひんやりとした気配が、六月の湿った空気を一瞬、冬のそれに変えた。
「君は……なぜここに」
「鏡が呼んでいました」とキリガミネンは静かに言った。「あの鏡はキラリティを持っています。どう重ねても重なり合えない鏡像——エナンチオマー——を、こちら側に引き出せる、龍神様の古い細工です」
タッチーは鏡を見た。
鏡の中のタッチーがゆっくりとこちらを向き、微笑んでいた。しかし右頬に刻まれたほくろが——左頬にあった。完全な鏡像ではなく、永遠に重なり合えぬ、もうひとつの自分。
「出てきますよ」と、キリガミネンがぽつりと言った。
鏡面が、水のように揺らいだ。
反転したタッチーが片足を踏み出した。脚の長さも、顎の角度も、本物と寸分違わなかった。ただし踏み出したのは左足——タッチーが常に右足から歩き始める癖と、正確に逆だった。
「お前は……俺か」
「いいえ」と、鏡の向こうの存在は答えた。「俺はお前の中にあって、お前が鏡でしか会えない者だ。今夜に限り、龍神様の契約が入れ替わりを許している」
タッチーは絶句した。
反転体は蔵の中を歩き回った。何もかもが逆だった。右側のポケットを探るところを左手で、文書をめくるのも左手で。そして腰の右に下げていたはずの鍵を、左腰から取り出した。
「どちらが本物かは、入れ替わった後には誰にもわからなくなる」と反転体は告げた。「俺をここに留めるも、戻すも——お前が決めることだ」
タッチーはじっと相手を見つめた後、ゆっくりと右頬に手を当てた。
「俺のほくろは、右頬にある」
反転体は静かに笑い、鏡の中へ戻っていった。波紋が収まると、大鏡はふたたび静かな闇を映すだけになった。
タッチーは鏡の前に立ち、今度は左手を腰に当てた。
鏡の中では、右手が腰に来た。
当然のことだった——はずだ。
余白: 翌朝から、タッチーは右足と左足のどちらから歩き始めるかを、決して確かめなくなった。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:「キラリティ鏡」(記録の蔵に収められた龍神様の細工——鏡像体と一時的に入れ替われる境界面を持つ黒漆の大鏡)
- 物語の隠されたテーマ:反転した自己と向き合う時、「どちらが本物か」を問うことそのものが、答えを溶かしていく