夕暮れが、来なかった。
午後七時を回っても、龍神様の湖は橙色の光の中に揺れ続けていた。コポーは湖畔の石に腰を下ろし、手のひらで水面を一度だけ叩いてから、また黙り込んだ。
今日中に言わなければと、昨日から思っていた。
「……なんで日が長いと、言えることが少なくなるんだろ」
答える者はいなかったが、少し離れたしだれ桜のベンチから、「フェっフェっ」という笑い声が聞こえた。
「お前が何を考えておるかは、声に出さんでも伝わっとるぞ」
ソンチョーが古い冒険帳のページをめくりながら、目を落としたまま言った。シルクハットの端が橙に光っている。
「……そういうの、ずるいと思う」
「長く生きると、そうなる。短所でもあるぞ」
遠くから、ケロミの歌声が流れてきた。広場の方向だ。伴奏もなく、観客もなく、ただ日の長い夜空へ向かって放たれた声は、湖の水面を低く渡り、ここまで届いた。
「……あいつ、今日も歌ってる」
「年に一度、世界中の人が音楽を外で鳴らす日があるそうじゃ。ケロミはそれを知ってもいないだろうが、毎年この時期になると歌いたくなると言っておった。体が先に知っておるんじゃろう」
コポーは立ち上がり、水面に小石を一つ投げた。波紋が広がり、橙の光を細かく砕く。
「……ソンチョー」
「なんじゃ」
「あの……俺、今日まで、ちゃんと言えてなかったけど」
言葉が止まった。ケロミの歌声が少し高くなったからだ。夏至の光の中で、声だけがそこにある。
ソンチョーはページをめくる手を止め、静かに湖を見た。
「コポー、一つだけ教えてやろうか」
「……なに」
「わしが冒険をやめたのは、この町に戻ってきた時、誰かがここで待っておったからじゃ。大した言葉も、大した出迎えもなかった。ただ、焚き火の前に座っておった」
コポーは振り返らなかった。耳の端が少し赤くなった。
「……それで十分なの?」
「十分すぎた」
ケロミの歌は続いていた。日が、まだ沈まなかった。コポーは石段に腰を下ろし、ソンチョーと並んで、音楽と夕暮れをともに待ちながら、何も言わなかった。
余白: その夜、コポーが湖に投げた最後の石は、波紋を一つも作らずにすっと沈んだ。龍神様だけが、それを見ていた。
【本日の雫】
- 夏至: 一年で最も昼が長く、夜が最も短い日。2026年の夏至は6月21日。太陽が最も高い位置に達し、蛙鳴町でも日没が遅れる。
- 父の日: 6月の第三日曜日。日頃なかなか伝えられない感謝を言葉にする日として、日本でも広く親しまれている。
- Fête de la Musique(音楽の日): フランス発祥の国際的な音楽祭。夏至に合わせて、世界中の街角でプロ・アマチュアを問わず音楽が演奏される。