梅雨の晴れ間の午後、踏切の警報機だけが静かな蛙鳴町を区切っていた。
「キリガミネン、また今日もここにいるんだね」
コポーが声をかけたのは、駅ホームの端に立つ白い大きな体へだった。キリガミネンは返事をしない。それがいつものことだと、コポーは知っている。
六月の蛙鳴町は湿気と光のあいだを行き来している。今日は珍しく雲が薄く、ホームに刷毛で塗ったような日差しが届いていた。それでもキリガミネンの体はひんやりと冷たく、その巨体から漂う空気だけが薄荷を噛んだあとのように澄んでいた。
電車が来た。
ホームに滑り込んだ二両の車体から、乗客がひとり降りた。コポーより少し背が高く、両手に重い荷物を提げている。靴の踵には都会の埃がまだ乗っていた。辺りを見回すその目には、何かを長い時間をかけて探し続けた人の疲れが浮かんでいた。
コポーは「あの……」と声をかけようとした。
しかし言葉は喉の手前でつかえて、口から出てこなかった。
旅人はホームを歩き、キリガミネンの横を通り過ぎた。その時、わずかに速度が落ちた。立ち止まったわけではない。ただ、少しだけ。そして再び歩き出し、踏切を渡り、町の中へ消えていった。
コポーは気づいた。踏切の向こうへ消えた旅人の背中が、荷物の重さを少し忘れたように、伸びていたことを。
夕方、コポーはソンチョーを訪ねた。しだれ桜の細い枝が、濡れたままの葉を夕暮れの光に透かしていた。
「知らない人が来たんだ。どこから来たのかも分からない。なのに踏切を越えた後、背中がすっと伸びてた」
ソンチョーは桜餅を一口食べてから、「フェっフェっ」と笑った。
「安全な場所には、匂いがあるんじゃよ。生き物はその匂いを、地図より先に知っとる」
「匂い?」
「薄荷のような、頭の中が少し晴れる感じじゃ。龍神様と交わした『争わない』という古い約束がな、気の遠くなるような時間をかけて、この土に滲み込んでおる。それが匂いになる」
コポーは「でも俺、いつも蛙鳴町にいるから、その匂いが分からないのかも」と言いかけて、やめた。
帰り道、踏切の前で立ち止まった。
橋向こうの石畳に夕光が斜めに差し、龍神様の彫刻が柔らかく輝いている。風が吹いた。どこからともなく薄荷のような清涼感が届いて、コポーの鼻先をくすぐった。
コポーは深く息を吸った。
ここが自分の町だと、言葉にならない形で、初めてきちんと確かめた。
余白: その夜、旅人が踏切の脇の石段に忘れていった荷物を、キリガミネンは駅長室に届けた。中身は誰も確かめなかった。
【本日の雫】
- 世界難民デー(6月20日): 国連が定める国際デー。1951年のジュネーブ条約から75周年にあたる2026年のテーマは「Until Everyone Is Safe(すべての人が安全になるまで)」。世界で1億2000万人以上が故郷を追われている
- ペパーミントの日(6月20日): 北海道北見市が制定した記念日。「20日=はっか」の語呂合わせと、六月の爽やかさにちなむ。最盛期には北見が世界のハッカ市場の約70%を占めた