梅雨の合間を縫う薄陽が、ホームの石畳を白くまだらに焼いていた。蒸した空気の中に、どこかの軒先から練りきりの甘い匂いが漂ってくる——甘さの中に、豆の渋みが混じった、この季節だけの匂い。
キリガミネンは、いつものようにホームの端に立っていた。白い体が梅雨の湿気を吸うことはなく、傍らを通り抜けた乗客は「ふしぎと涼しい」と首をかしげて改札の方へ消えていく。
そこへ、両腕で白い箱を抱えたマスクメンが、タタタと小走りに上がってきた。黒いマスクの下で息が乱れているのが、その肩の動きでわかる。
「き、キリガミネンさん。今日……龍神様の祠に、これを届けに行かないといけなくて」
箱の蓋がわずかにずれていた。中を覗けば、白い和紙の上に小さな和菓子が十六個——水まんじゅうの青、練りきりの白、落雁の金茶。みんな違う形に仕立てられていて、見ているだけで手が清められるような気がした。
「昔、仁明天皇が十六の菓子を神前に供えて、疫病除けと健康招福を祈ったんだって……ソンチョーさんが」
マスクメンは早口で言い、それからすぐに口をつぐんだ。広場を横切り、川沿いのしだれ桜の奥まで一人で行く——それを想像すると、足がすくんでしまうのだった。警備隊の制服を着ていても、マスクで顔を隠していても、一人で向かう静寂には別の勇気がいる。
キリガミネンは答えなかった。ただ、ほんの少し体を箱の方へ傾けた。
その瞬間、白い毛並みからひやりと涼しい風が立ち上がり、マスクメンの手のひらをすーっと撫でた。汗ばんでいた指先が、すっと解けた。
「——行けます」
マスクメンはもう一度だけキリガミネンを仰ぎ見て、それから踏切に向かって歩き出した。背筋が伸びていた。十六個の菓子を納めた白い箱が、腕の中でわずかに揺れる。
踏切の向こうに小さな背中が消えていくのを、キリガミネンはいつものように動かずに見送った。ホームに残ったのは、甘い匂いと、梅雨の静けさだけだった。
余白: その夜、龍神様の池のほとりに残された十六枚の和紙は、朝には一枚も見当たらなかった。菓子が消えたのか、和紙が消えたのか——マスクメンは翌朝確かめに行ったが、そのことを誰にも話さなかった。
【本日の雫】
- 和菓子の日(嘉祥): 6月16日。嘉祥元年(848年)、仁明天皇が御神託に基づき16種の菓子・餅を神前に供えて疫病除け・健康招福を祈った古例に由来。江戸時代には将軍家でも菓子を贈り合う「嘉祥菓子」の慣習が広まった。