メインコンテンツへスキップ
  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

みょうがと忘れ物

夕暮れ時の池の畔に、コポーは真剣な顔でノートを開いていた。

「よし……18時。ブラジルvsモロッコ。絶対に見る」

ペンで二重丸を書き込み、テレビの前の座布団に腰を下ろした。蛙鳴町にまで届くはずのない歓声を、四角い画面の向こうに見届けるための、完璧な計画だった。

「コポー、畑にみょうがが大量に出たぞ」

ずしりとした足音と共に、モッチーが麻袋を縁側に下ろした。土の匂いと一緒に、青白い茎が何本も顔をのぞかせる。夕風がその匂いをそっと部屋に運んだ。

「おー!ありがとう!」

コポーは何も考えずに一本つまんで口に放り込んだ。しゃきっとした歯応えと、清々しい苦味。

「美味いな。もう一本——」

「そんなに気軽に食べるな。みょうがを食べると物忘れするって言うだろうが」

モッチーが細い目を細めながら言ったが、コポーの手はすでに三本目に伸びていた。

「ハッハ、そんな迷信——俺が忘れるとしたら、元々覚えてないことだけだ」

縁側に虫の声が重なりはじめた頃、コポーはぼんやりとした目で立ち上がった。

「……あれ。今日、何かしようとしてたっけ」

ノートは風でページが裏返り、白紙の面が上を向いていた。「18時。ブラジルvsモロッコ」の文字は裏側に隠れ、コポーの目には届かなかった。

「兄ちゃん、試合始まってるよ」

いつのまにかミニコーが隣に座り、静かにテレビを指さしていた。画面の中では、ブラジルの選手が走り、モロッコの守備が固く押し返していた。

「あ——そうだ!これだ!」

コポーが勢いよく立ち上がり、また座り直した。ミニコーはくすりとも笑わず、ただ画面を見ていた。

「忘れても、帰ってくるものは帰ってくるよ」

池に映る夕暮れが、ゆっくりと揺れた。

余白: 翌朝、コポーのノートの裏ページには「みょうがに負けた。でも試合は観た。」とだけ書かれていた。


【本日の雫】

  • FIFA ワールドカップ2026:2026年6月11日〜7月19日、アメリカ・カナダ・メキシコの3か国共催で開催中。今日6月13日の試合にブラジルvsモロッコ戦が組まれている、史上最大の48チーム規模の大会。
  • いいみょうがの日(6月13日):「1(いい)3(みょうが)」の語呂合わせに由来する記念日。みょうがには「食べると物忘れをする」という民間伝承がある。高知県がみょうがの主産地。