蛙鳴町奇譚:待合室のフレーム#
駅のホームに、六月の湿った風が滑り込んでいた。
待合室の小窓から、古いテレビがスタジアムの映像を流している。歓声とも悲鳴ともつかない音が、朝のホームにこぼれ出てきた。画面の隅で速報テロップが白く走る——「日本代表・主将 直前離脱」。
キリガミネンは、いつものようにホームの端に立っていた。その白くふわりとした体からは、蒸し暑い六月の朝を忘れさせる涼しさが静かにしみ出し、行き交う人たちが無意識にその傍らを通り過ぎていく。
「……べつに、どうでもいいし」
ベンチに腰をおろしたオヒサマが、膝の上の包みを見つめながら言った。白い布に包まれた四角いものが、午前の弱い光を受けてかすかに光っている。
「W杯って、どうせ遠い話でしょ。勝っても負けても、蛙鳴町には関係ないじゃない」
「……でも、惜しいね」
待合室の隅で、ペーシャンがのろのろと体を起こした。昨夜も地面に近い場所で眠っていたのか、背中にうっすら土の匂いがついている。
「あの人、ずっとがんばってきたのにね。土の中で根っこを伸ばし続けて……それで、出られなくなっちゃった」
ペーシャンのそのひと言が、ホームの空気にじわりと馴染んでいった。
オヒサマは膝の上の包みを、少しだけ強く抱いた。
「……期待するから、さ。傷つくんだよ」
だから待ってない、と言いかけて、彼女は口を閉じた。
キリガミネンがゆっくりと振り向いた。その冷たいまなざしは、夏に触れた氷のように、痛みより先に静けさをもたらす。
「でも、それって……渡す人のことを思って選んだんでしょ」
低く静かな声だった。指先で、白い布の包みの角をそっと示す。
オヒサマの頬が、見る間に赤くなった。
「ち、違う! 捨てようと思って持ってきただけ! 誰かにあげようとか、そういうのじゃ……」
テレビから、また歓声が流れた。開幕戦のゴールシーンを、誰かが繰り返し流している。夢半ばで止まった背番号のことは、今はまだ、あまりに眩しいグラウンドの外に置かれたままだった。
駅に涼風が吹いた。キリガミネンの白い毛が静かに揺れ、蒸した朝がひとときだけ澄んだ。
余白: その夕方、オヒサマの机の引き出しには、白い布の包みがひとつ増えていた。中の写真立ては、まだ誰の写真も入っていなかった。
【本日の雫】
- 恋人の日:6月12日はブラジル・サンパウロ発祥の恋人の記念日。写真立てを贈り合う慣習がある
- FIFA ワールドカップ2026開幕:6月11日に北中米で開幕。日本代表は6月14日に初戦を控えるが、主将が直前に離脱するという波乱の立ち上がりとなった