龍神様の湖のほとりに、旅籠が出現したのは、六月の宵のことであった。
コポーが池の石に腰を下ろし、ぼんやりと夜霧を眺めていると、昨日まで何もなかった原っぱに、磨き込んだ木の看板と、黄色い格子窓が現れていた。看板には墨痕鮮やかに「無限旅籠 壱ノ間より」と刻まれ、その下に小さく「常時満室・常時空室」という矛盾した文言が並んでいた。
「……どちらだ」
コポーが木戸を押すと、番頭らしき老カエルが現れた。帳場の台に据えられているのは、古びた算盤ではなく薄型のデジタル台帳であり、首には光ファイバーのコードが、行灯の代わりに薄く光りながら垂れ下がっていた。
「お客様、あいにく本日は満室でございます」
「では、泊まれないと」
「——いいえ。お入りください」
番頭は台帳をひと撫でし、廊下の奥に向かって静かに宣した。
「壱ノ間のお客様は弐ノ間へ。弐ノ間のお客様は参ノ間へ。以下、無限に続く」
廊下の奥から、波のように人の気配が動き始めた。部屋から部屋へ、また次の部屋へ。その足音は、いつまで経っても終わらなかった。やがて番頭は涼しい顔で告げた。「壱ノ間が空きました」
コポーはその夜、壱ノ間に泊まった。隣の弐ノ間には、移ってきた誰かの寝息があった。参ノ間でも、また咳払いが一つ。廊下の果て——あるとすれば——そこにも、きっと誰かがいた。
翌朝、コポーは尋ねた。
「私の隣の方は、どこへ移ったんですか」
「弐ノ間から参ノ間へ」
「その次の方は」
「参ノ間から四ノ間へ」
「では最も奥の部屋の方は——」
番頭は静かに微笑んだ。「最も奥の部屋は、まだどなたもお調べになったことがございません」
宿帳を覗くと、一番上にコポーの名前があった。その下に無数の名前が続き、しかし欄の一番最初にも「コポー・KP」と記されていた。
「これ……私の名前が最初にも一番にも」
「一番に泊まったお客様は、いつでも最初のお客様でございます」
宿を出ると、看板の文言が変わっていた。「常時満室・常時空室・常時一番」。
その夜、コポーはソンチョーに話した。長老は「フェっフェっ」と笑い、しばらく空を見た後、静かに言った。
「……旅籠の名に"より"とあったのう。始まりを名に持つ宿は、必ず終わりも抱えておる。それでも夜が明けた、それが答えではないかの」
翌朝、旅籠はなかった。ただ原っぱに梅雨の朝露が光り、コポーは自分が一体何番目の部屋に泊まったのかを、しばらく考え続けた。しかしその問いは、どこまで遡っても壱ノ間に戻ってくるのであった。
余白: 宿帳の最初の頁には、インクが乾く前に書き直された痕跡があった。その名前は、もはや読めない。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:無限旅籠——龍神様の湖のほとりに時おり出現する、常に満室であり常に空室でもある旅籠。番頭の一声で全客が次の部屋へ移動し、常に壱ノ間が空く。
- 物語の隠されたテーマ:無限は余白を生み出す論理だが、「始まりの名前」だけは静かに上書きされ続ける。