蛙鳴町奇譚:水のたより#
梅雨の前夜のような空が、龍神様の湖の上に低く垂れ込めていた。水面は灰青く、凪いでいる。
スパイスが岸に膝をついて、細い金属の棒を水に沈めた。白いコートの袖口が泥で汚れるのを気にした様子もなく、数値を手帳に書き留める。指先が止まった。
「……また上がっている」
声に出たのは独り言だったが、背後から「何が?」と問いかけがあった。
モッチーだ。背中に土嚢のような布袋を三つ担いでいる。袋の縛り目から、細い根がはみ出ていた。
「水の濁度だ」とスパイスが答えた。「川は繋がっている。遠い場所で何かが燃えれば、その灰はいずれ水になって流れてくる。今朝の数値は、いつもより少し——」
「にごっている?」
スパイスは答えなかった。ただ、測定棒を引き上げて水の雫を眺めた。
モッチーは荷物を下ろした。袋の口を開けると、根付きの苗木が三十本ほど出てきた。黒土をたっぷり含んで、それなりに重そうだ。
「山の斜面が去年の大雨で崩れたまま、誰も手を付けてないんだ。木を植えないと、梅雨でまた余計えぐれる」
スパイスはしばらく湖面を見つめた。
「……今日は世界環境デーだな」
「そういう日なのか」
モッチーはあっさりと言って、手で土を掘り始めた。細い目に、曇り空が映っている。
「俺は毎年この時期に植えてる。梅雨に根付くから、龍神様が水をくれているうちに始めるんだ。環境デーとか、関係なく」
スパイスは何かを言いかけて、やめた。測定棒をポケットにしまい、黙ってモッチーの隣にしゃがんだ。泥の匂いがした。
穴が二つ、三つと増えていく。苗木を一本ずつ丁寧に入れ、土を押さえる。指の間から、黒土の冷たさが伝わってくる。
「遠くで何かが傷ついても、ここに木が増えれば、水は少しだけ澄む」
スパイスが呟いた。モッチーは返事の代わりに、次の苗木を手渡した。
雨はまだ来ていなかった。でも空気の底に、水の重さがあった。
余白: その夜、スパイスの手帳に書かれた数値の隣に、誰かが鉛筆で小さく「+1」と書き加えていた。植えた木の数だったのか、何か別の記録だったのか、翌朝のスパイスには判断がつかなかった。
【本日の雫】
- 世界環境デー(6月5日):1972年の国連人間環境会議を記念し制定された国際デー。地球環境の保護と持続可能な暮らしへの意識を世界に呼びかける。
- 遠い地の水の記憶:地球上の水は川や大気を通じて循環し、遠く離れた土地の出来事も水質に影響を与える。スパイスが記録した小さな変化は、世界の繋がりを静かに映していた。