蛙鳴町奇譚:虫と舌の休戦#
朝のうちから、広場の石畳は青く湿っていた。梅雨の前夜の草の匂いが石畳の隙間に染み込んで、コポーの舌先がひとりでにピクりとした。
草むらから、テカテカとした黒い甲冑が現れた。カブトムシだ。立派な一本角を持つそれは、石畳の上をのんびりと歩き、コポーの鼻先数センチで止まった。喉が、ごくりと鳴った。
「……今日は食べない」
声に出して自分に言い聞かせると、桜の木陰から「フェっフェっ」と笑い声がした。
「知っておるか、コポー。この町には年に一日だけ、虫と口が約束を交わす日がある。六月の四日じゃ」
ソンチョーが草の上に寝転がり、雲の流れを眺めながら言った。
「舌を持つ者が先に動かしてはいかん——そう龍神様の池のほとりに刻んであった。今は石が苔に覆われて見えんが」
「……そんな話、聞いたことない」
「聞いたことがない話ほど、古い話じゃ。フェっフェっ」
コポーはぐ、と腹を鳴らした。カブトムシは気にした風もなく草むらへ戻っていった。
池から吹いてくる風が、ぬるく湿っていた。川沿いのしだれ桜が揺れ、遠くでケロミが歯を磨きながら鼻歌をうたっている音が聞こえた。石けんと草の青臭さが混じり合って、広場をゆっくりと漂った。
「ソンチョー。約束を守ると、何かあるの」
老人はしばらく黙ってから、柔らかく言った。
「腹が減ったまま夕暮れを迎えると、はじめて『食べなかった理由』が分かる。それが、願いの形をしとる」
コポーは草を一本引き抜き、くるくると指に巻きながら空を見上げた。何か言いかけて、やめた。草を巻いた指の先に、小さな虫が一匹とまって、すぐに飛び去った。
余白: その夜、コポーが龍神様の池のほとりで何を呟いたか、誰も知らない。翌朝、池の水面に白い蓮の花がひとつ、増えていた。
【本日の雫】
- 虫の日(6月4日):「む(6)し(4)」の語呂合わせから生まれた記念日。福島県田村市では「カブトムシ自然王国」を宣言し、阿武隈の自然とカブトムシを守ることを誓っている。
- 歯と口の健康週間(6月4〜10日):「む(6)し(4)」歯予防の観点から始まった週間。虫と歯の「む・し」が6月4日に重なる。