六月の朝、路地の角に一台の自転車が立てかけてあった。
スポークに錆が浮き、前輪が微妙に歪んでいた。チェーンの半分が外れ、荷台の古い紐が石畳に垂れている。コポーはしゃがんでそれを眺めた。
「誰かのですか、これ」
「知らん。十年以上あそこにある」
スパイスが工房の窓から顔を出した。手には分解途中のガジェット。
「直せますよね」
「五分あれば。チェーンだけ持ってきなさい」
コポーはチェーンに素手で触れた。錆と古い油が指に滲んだ。それでもペダルを踏んでみると、重たく、ぎこちなく、自転車は動いた。石畳の上を、蛇行しながら。
「……動く」
三漕ぎで縁石にぶつかった。起き上がり、また三漕ぎした。少しだけ真っ直ぐになった。そのまま広場をぐるりと回ると、石畳のつなぎ目を越えるたびにハンドルがぶれて、龍神様の池のそばで一度止まった。白い空が水面に映っていた。
縁側でミニコーが朝刊を広げた。「どこかの州が、賢い機械を訴えたって。安全より儲けを優先したって」
コポーは返事をしなかった。かちゃ、かちゃ、とチェーンが不規則に鳴った。計算して動く機械が都会にある。それでもこの錆びた車輪は、今、足の力だけで動いていた。うまくはなかった。でも動いた。
踏切の手前で止まって振り返ると、スパイスがまだ窓から見ていた。
「遅い」
「知ってる」
梅雨前の空気が、草と泥の混ざった匂いを池から運んできた。しだれ桜が初夏の風に重たそうに揺れた。コポーは前を向き、もう一漕ぎした。
余白: その夜、工房の窓台にチェーンオイルの缶がひとつ置かれていた。いつそこに置かれたか、コポーは翌朝も答えられなかった。
【本日の雫】
- 世界自転車デー:国連が制定した6月3日の記念日。自転車は人力・持続可能・環境に優しい移動手段として、世界で称えられる。
- AI提訴:米フロリダ州がChatGPT運営会社を「安全より利益を優先した」として提訴。米国の州による初の訴訟。