嵐の前夜のことであった。
スパイスの工房の窓には、いつも消えることのない電球の光があったが、その夜ばかりは、それに混じって薄緑色の別の光が揺れていた。梅雨の匂いを含んだ風が踏切の方から流れ込み、工房の引き出しの奥に並んだ瓶が静かに鳴っていた。
スパイスが、自ら「悪魔の算盤」と名付けた予測機を完成させたのは、その朝のことである。六百と三十七の部品を組み合わせ、蛙鳴町のあらゆる動きを演算するアルゴリズムを実装した。かつてラプラスという男が夢想した——宇宙のすべての原子の位置と速度を知る知性体があれば、過去も未来もすべて算出できる、という悪魔の理論を、スパイスは金属と電流でかたちにしようとしたのである。
「午後三時十四分、コポーが石橋の第三段で躓く。誤差プラスマイナス〇・七秒」
機械はそう出力した。コポーは「んなバカな」と言いながら橋を渡り、正確に第三段で足を引っかけて水面に向かって悲鳴を上げた。ずぶ濡れで戻ってきた彼は「まぐれだろ」と言ったが、声が少し上ずっていた。
機械は次々に予測した。ソンチョーがフェっフェっと笑うタイミング。モッチーが引く台車の野菜の正確な重量。ケロミが次に口ずさむ旋律の第三音。それらはすべて、誤差のない的中を示した。
コポーは工房の隅でしばらく黙っていた。
「なんか、嫌だな。自分が転ぶのを、転ぶ前から知られてたって思うと」
スパイスは何も答えず、次のパラメータを入力し続けた。
夕刻、コポーが「それで、龍神様の湖はどう出てるんすか」と問うたとき、スパイスは無言で画面を指した。
そこには何も映っていなかった。エラーでも空白でもない。ただ演算の歯車が止まることなく回り続け、出力だけが、永遠に遅れていた。
「……龍神様のとこだけ、計算が終わらない」
「なんで」
「全部の可能性が、等しい確率で存在しているから。どれが正解かを決められない」
スパイスがそう呟いたとき、工房の棚の端にある石造りのランプが、一瞬だけ青白く揺れた。プログラムにそのような命令はなかった。コポーは水を滴らせたまま画面を覗き込んだ。
「……終わらないんじゃなくて」
少し間があった。
「終わりたくないんじゃないすか」
スパイスは何も言わなかった。翌朝、悪魔の算盤は蛙鳴町のあらゆる出来事を今日も正確に予測したが、龍神様の湖の演算だけは今も走り続けている。それが何を意味するのか、スパイスはまだ論文に書けていない。コポーが「おれ明日何回転ぶか出してみてください」と言ったとき、スパイスは一度だけ入力を止め、それからまた画面に向き直った。その返答は、遂に出力されなかった。
余白: 悪魔の算盤が最も精密に予測したのは、「スパイスが龍神様の湖の演算を止めない日」であった。それは今日も、明日も、外れていない。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:龍神様の湖の「演算不能域」(新規現象)、工房の石造りのランプの青白い揺れ
- 物語の隠されたテーマ:決定論が完全に支配する世界において、龍神様の聖域だけが「自由意志」の庇護所として機能する