記録の蔵の天井から、それは吊るされていた。
いつ、誰が設置したのか——蔵番の古い台帳にも、スパイスが精緻に整えたデジタルアーカイブにも、その一行は存在しない。ただ蛙鳴町の住人が記憶している限り、あの細い鋼線と鉄の球は、ずっとそこにあった。纏う埃はほんの薄く、薄い光の中で、ゆっくりと、ほとんど気づかぬほどに、一日の間に向きを変えながら揺れ続けている。蔵を訪れる者は大抵それに気づかず、気づいた者も特に問わなかった。
「フーコーの振り子だよ」
タッチーが長い脚を組みながら言った。「地球の自転を証明する装置だ。振り子が振れる平面は、宇宙の側から見れば固定されている——動いているのは下の地面の方だ。この緯度なら一時間あたり約十三度、偏角が生じるはずで、それはいかなる実験よりも雄弁に、地球の運動を——」
コポーが大きく欠伸をした。
「聞いてないのか」
「聞いてる。難しい。……それで、いつ誰が付けたんだ、これ」
タッチーは答えず、代わりに黙って振り子の真下に立った。その長い体が鋼線と平行に伸びる。足の裏の感覚を確かめるように、一度だけ踵を浮かせた。細い目が弧の底を追う。
「おかしい」
ぽつりと言った。床に描かれた目盛りの弧を指でなぞりながら。「一時間前と比べると、偏角がほとんど動いていない。地球が自転を止めたか、あるいはこいつは——地球の動きに従っていないか、どちらかだ」
コポーは背中の産毛が逆立つのを感じた。鋼線は光を吸い込むように黒く、鉄球は生き物の体温でも宿しているかのように鈍く輝いていた。蔵の外では春の鳥の声がするのに、薄埃の積もった石床の上だけが、別の時制の中に切り取られているようだった。コポーはふと、もし自分がこの振り子だったなら、地球に従うだろうかと考えた。蔵の外の音が急に遠のき、耳の奥に鉄球が砂を掠める微かな摩擦音だけが残った。答えは出なかった。
二人は黙って、一刻を共に過ごした。
やがてコポーが床に気づいた。振り子の先端が砂に刻んでいく軌跡が、単純な扇形ではない——ゆっくりと、意志を持つものが描くように、ある輪郭を作りつつあった。
「……タッチー。これ、町の形じゃないか」
タッチーは長い首を傾け、しばらく黙って眺めた。石橋、しだれ桜の川沿い、龍神様の湖、踏切の手前の空き地。振り子の先端が通る線は確かに、蛙鳴町の地図を一筆書きのように辿っていた。
「偶然だ」とタッチーは言った。「偶然でないとしても、偶然と言うべきだ」
コポーはその言葉の奥を問わなかった。ただ、龍神様の湖の場所に当たる一点で、振り子の弧が一瞬だけ止まったように見えたことを、誰にも言わないと静かに決めた。「地球に従わないで、どこへ向かってるんだ、あいつは」——その問いは喉の奥に落ちたまま、外へは出なかった。タッチーは一度もキザな表情を崩さなかったが、蔵を出るとき、振り返らずにドアを静かに閉めた。
余白: 翌朝、蔵の床を見に行くと、砂の上の線は綺麗に掃き消されていた。振り子は、また揺れていた。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象・小道具:記録の蔵に由来不明で吊るされたフーコーの振り子(地球の自転に従わず、蛙鳴町の地図を一筆書きする)
- 物語の隠されたテーマ:測れるものより、測れないものの方が多い場所で、人は何を信じるか