カエル山の中腹から眺めると、蛙鳴町の屋根がちょうど掌に収まる高さになる。
コポーは三度目の踏み出しで、また足が止まった。
頂上の尖り石まであと三十歩。石は雨に磨かれて丸く、蛙鳴町で一番空に近い場所だとコポーが一人で決めていた。何か大事なことを決める前に必ずここに来るのだが、急な斜面に足がすくんで、今日は朝からもう三度引き返していた。
「コポー、下から見てもよく目立ってたぞ」
肥料袋を抱えたモッチーが、山の入り口で声をかけた。今日は一粒万倍日で、一年で最初に蒔くと決めた種を土に入れる日だった。
「うるさい。足がすべるんだよ、この道は」
「すべる道を選んだんだろ、お前が」
モッチーは畑の隅に膝をつき、指で土に小さな穴を空けて、種を一粒だけ入れた。丁寧に、けれど特別でもなさそうに。
「……それだけか。種、一粒だけ?」
「今日は一粒でいい。一粒万倍日ってのはな、一粒を一万粒にする日じゃなくて、一粒をちゃんと入れる日だ」
コポーはその手を見ていた。泥のついた指が、土の窪みをそっと埋める。春の湿った土の匂いが、朝の空気の底に重く漂っていた。
「……お前は、頂上に登ろうとは思わないのか」
モッチーは立ち上がり、さっき蒔いた場所に一瞬だけ目を落とした。
「行けるぞ。世界一高い山に登った二人も、最初の一歩は泥の上だったんだから」
その言葉がどこから来たのか、コポーには分からなかった。
コポーは四度目の踏み出しで、止まらなかった。草の露が足首を濡らし、石が膝をかすめ、息が乱れた。三十歩は四十歩になったが、それでも止まらなかった。
頂上の石に手を触れた瞬間、眼下の畑でモッチーが次の種を押し込む動作が、蛙鳴町の全景の中でひとつの点になった。
「……フェっフェっ。一番高い場所に立った者だけが、一番小さな粒の重みを知るのじゃ」
しだれ桜の方向から、ソンチョーの笑い声だけが風に乗った。
余白: その夜、コポーが頂上石に触れた指に、小さな土の粒がひとつついていた。いつ混じったのか、誰も知らなかった。
【本日の雫】
- エベレスト登頂記念日:1953年5月29日、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとネパールのシェルパ、テンジン・ノルゲイが人類で初めてエベレスト(標高8,849m)の頂上に立った。今年で73周年。
- 一粒万倍日:2026年5月29日は一粒万倍日。一粒の種が万倍の実りになるとされる縁起の良い吉日で、新しいことを始めるのに適した日とされる。