五月の終わりは、夜でも空気が柔らかい。龍神様の池から漂う水の気配が川沿いのしだれ桜の枯れた花びらをゆっくりと流す時分、スパイスの工房だけは相変わらず電球の光を灯していた。
「スパイス! いるか!」
扉を蹴るように開けたコポーの袖には、砕けた何かの欠片がくっついていた。泥だらけの足。手のひらに赤い擦り傷。何かを作って失敗した跡だ。
「入口から叫ぶな」
工房の奥で、スパイスは都会から取り寄せた配線を捌きながら目も上げなかった。
「ひどいことばかりだった。地図を落として川に流して、追いかけたら橋で転んで、立ち上がったら帽子が風に飛んでいって」
「それで?」
「それで……悔しくて。来た」
スパイスはペンチを置き、椅子を一脚引いた。コポーがそこに崩れるように座ると、棚の端に置かれた小さな石のランプが視界に入った。工房の道具類とは場違いに古めかしいそれは、拳ひとつほどの大きさで、芯から静かに火が揺れていた。
「それ、なに?」
「知らん。工房を受け継いだときすでにあった」
「……消したことは?」
「一度もない」
スパイスは珍しく言葉を続けた。
「ソンチョーに聞いた話がある。海の向こうの山に、千二百年以上前に誰かが灯した火があった。建物も柱も屋根も、ある夜ぜんぶ燃えて崩れた。だが誰かがその火だけを抱えて逃げて、今も燃え続けているらしい」
コポーは目をしばたたかせた。
「……建物が燃えても?」
「建物が燃えても。場所が変わっても。渡す人間がいれば、消えない」
コポーは石のランプを見た。揺れる炎は、工房の道具のどれよりも古い顔をして、静かにそこに座っていた。ミントと古い油の混ざった空気の中で、その火だけが少し違う色をして見えた。
「悔しいのは」とスパイスは配線を再び手に取りながら言った。「帽子が飛んだからじゃないだろ」
コポーは答えなかった。ただ少し鼻をすすった。
初夏の夜、龍神様の池の方角から水の音がして、工房の灯りが一度だけ、風もないのにわずかに揺れた。
余白: その夜、コポーは家に帰る前に石橋の欄干にそっと手を置き、少しだけ立ち止まって、振り返らずに渡った。
【本日の雫】
- 消えずの火(宮島・弥山):広島・宮島の弥山で千二百年以上灯り続けたとされる「消えずの火」が、本堂焼失後も人の手で守られ、継承されたこと。