スパイスが人工の雪の結晶を完成させたのは、五月の末の深夜であった。
工房の中央に据えられた旧式の冷却ユニット——都会のデータセンターから廃棄されたコンプレッサーをスパイスが魔改造したもの——の中で、細い銅線の先に、完璧な六角形の氷が育ちつつあった。温度はマイナス十五度。湿度は九十三パーセント。数値はスパイスの手製モニターに逐一映し出されていたが、彼の目はそれよりも、結晶そのものに注がれていた。
六本の腕が完全に対称をなしている。その先端から、さらに細かい枝が放射状に伸びている。
「……これか」
スパイスは呟いた。何かを確認するように、もう一度だけモニターを見て、視線を戻した。
問題が起きたのは、翌朝であった。
冷却ユニットを停止させると、通常ならば数秒で溶けるはずの結晶が、工房の室温——ミントと古い油の混ざった二十二度の空気の中——でも、一向に姿を変えなかった。スパイスは測定器を当てた。温度:正常。湿度:正常。結晶の存在を説明するデータが、一切存在しなかった。
コポーが工房を覗いたのは昼過ぎのことだった。
「なんか変なもの作ってる」
「見るな」
スパイスは即座に手で遮った。が、コポーはすでに銅線の先の白い六角形を目に入れていた。
「……あれって、溶けないの?」
「溶けない」
「なんで」
「分からない。データがない」
コポーは珍しくスパイスが「分からない」と言ったことを、なんとなく飲み込めないまま、工房を後にした。
ソンチョーに話を持ち込んだのはその夕方だった。しだれ桜の下でシルクハットを傾けて桜餅をかじっていた長老は、スパイスから結晶を差し出されると、眼鏡も使わずにしばらく黙って眺めた。
「フェっフェっ。……これは、返事がまだのものじゃ」
「返事?」
「雪は天から送られた手紙じゃ。大昔、遠い北の学者がそう言った。……ただし、手紙には返事を待っているものと、そうでないものがある。これは前者じゃな」
スパイスは何も言わなかった。工房に戻り、結晶を光にかざして眺めた。六本の腕の、それぞれ六十度の対称。どんな気温と湿度がこの形を作ったか、逆算すれば分かる。それはすなわち、この結晶が「生まれた空」の記録だ——しかし、この結晶はスパイスが人工的に作ったものであった。生まれた空など、存在しないはずだった。
三日目の夜明け、結晶は消えた。
銅線の先には何も残っていなかった。スパイスは測定器を確かめ、ノートを開き、何事かを書き留めて、静かに閉じた。
ノートに何が書かれたか、町の誰も知らない。
余白: 翌朝、工房のすべての窓ガラスの内側に、消えた結晶と同じ六角形の霜が一面に広がっていた。スパイスはシャッターを押した。が、その瞬間、霜は跡形もなく消えた。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:新現象「天の返信(てんのへんしん)」——生まれた空を持たない人工の結晶が「場所の記憶」を宿して顕現し、受け取り手が返事を認識した瞬間に消える現象。返信の内容は受け取り手だけが知る。
- 物語の隠されたテーマ:科学的に説明できるものと説明できないものの境界線は、測定器の外にある。