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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

蛙鳴町奇譚:雨の代筆

五月の終わりの雨は、蛙鳴町の石畳を一枚の原稿用紙に変える。

都会から来た女が三脚を立てたのは、ちょうどその雨が降り始めた頃だった。最新型の8Kカメラと外付けSSDを収めた防水ケースを肩に提げ、「異界の実録映像」というタグで動画配信サイトに投稿するための素材を求めて、SNSに流れ込んだこの町の噂を辿ってきたのだという。三脚の一本足が石畳の継ぎ目に入り込み、なかなか安定しなかった。何度直しても傾く。それがこの町から最初に受け取った返事であることを、この時の女はまだ知らなかった。

「ここで雨が石に文字を書くって、本当ですか」

コポーは傘も差さずに広場の端に突っ立っていた。女の問いに黙って、石畳を指さした。

雨が降る。石が濡れる。そして濡れた石の面に、細い筋が走り始める。波紋でも水流の跡でもなく、確かに文字と呼ぶべき形が、雨の落ちるたびに一画ずつ書き足されていくのだった。これが蛙鳴町に古くから現れる現象、雨の代筆である。読む者によって内容が異なり、同じ石の上に立っても誰一人として同じ文を読まないと、この町では当たり前のこととして知られていた。誰がそれを確かめたのかも、誰がそのことに疑問を持たないのかも、蛙鳴町の住人たちは特に考えないのだった。

女はカメラを向けた。レンズが曇った。

拭いても、レンズクリーナーを二枚使っても、8Kの解像度が石の表面を捉えようとするたびに、ガラスの内側から霧が湧いた。絞りを変えても、ISO感度を上げても、フォーカスをマニュアルに切り替えても、駄目だった。SSDへの記録は止まらないのに、モニターに映り込むのは白い靄だけだった。女はしばらく立ったまま、ファインダーを覗き続けた。

「撮れない」と女が呟いた。その声に怒りはなく、困惑と、かすかな安堵が同じ比率で混じっていた。

ミニコーが傘の縁から覗いて石畳を見た。「……あ、『帰り道はわかってる』って書いてある」

「ちがう」とコポーが言った。「『まだここにいていい』って書いてある」

女は三脚を静かに畳んだ。石畳に膝をつき、レンズの代わりに目でしばらく眺めた。唇が動いた。声にはならなかった。何と読んだのかは、最後まで言わなかった。雨に濡れた膝が冷たいはずなのに、立ち上がるまで随分と時間がかかった。

雨が上がる頃には文字も消え、石は何事もなかったように乾いていった。

女はSSDをケースに戻し、ゆっくりと踏切の方へ歩き始めた。三脚は肩に担いでいたが、カメラは仕舞わずに手に持ったままだった。振り返らなかった。

余白: 翌朝、女が三脚を立てていた石畳の一枚だけが、他より半日遅くまで乾かなかった。その理由を尋ねる者はなく、コポーも気づいていなかった。

【奇譚の核(しん)】

  • 創作した固有現象:雨の代筆(雨が石畳に文字を書くが、読む者によって内容が異なる。高精度な機器では記録できない)
  • 物語の隠されたテーマ:外側から「証拠」として切り取ろうとする視線には、この町は何も渡さない。ただ、ここに立って読む者には、それぞれの言葉を置いていく。