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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

ビワひとつぶんの言葉

ビワの実が熟れはじめる、初夏の午後。コポーは石橋のたもとで、白紙のノートの前に座り込んでいた。

「……書けない」

三度目の書き出しを消した跡が、紙をうっすら毛羽立たせている。今日が恋文の日だと気づいたのは、ミニコーが新聞を折りながら「五の二の三、こいぶみ、だって。兄ちゃん、読みやすいね」と呟いたからだった。

「うるさい」 「怒ってない?」

ミニコーは朝刊から目も上げない。コポーは消しゴムのカスを吹き飛ばし、また一行目から書き始めた。「あの」「ねえ」「こんにちは」——どれも違う。蛙鳴町に生まれてこれだけ生きてきて、たった一人に届く言葉がひとつも持っていなかった。

石橋の向こうで、オヒサマが長い棒でビワの枝を揺らしていた。熟れた橙色の実がふたつ、草の上に転がった。彼女は拾い上げて光にかざし、口元に運んでから——ふいに手を止めた。誰かが見ているのを、わかっていそうな止まり方だった。

コポーはノートを閉じた。このまま置いていったら風に飛ばされるだろうか。橋の欄干の上に置いたら——

「書けないならビワ一個持ってけば」

ミニコーが新聞をたたんで、川の方を向いた。

「言葉がないなら物だよ。古来からずっとそうじゃなかったっけ、この町」

コポーは三秒黙った。それから川岸の草の上に転がっているビワをひとつ拾い上げ——なぜかそれをノートの上にそっと置いて、橋を渡っていった。振り返らなかった。

オヒサマがその場所に来たのは、夕暮れになってからだった。

余白: ノートの白紙には、ビワの汁がうっすら染みていた。オヒサマはそのページを一度だけ手のひらで押さえて、また風に開けておいた。


【本日の雫】

  • こいぶみの日:5月23日の「こ(5)い(2)ぶみ(3)」の語呂合わせと、映画『ラブ・レター』(1998年公開)にちなんで松竹が制定した記念日。
  • ビワの日:「ふ(2)さ(3)」の語呂合わせにちなみ、全国果樹研究連合会ビワ部会が制定した記念日。初夏に旬を迎えるビワへの関心を高める日。