五月の光が龍神様の湖を白く塗り替えるころ、スパイスの工房の前には小さな騒ぎが起きていた。
「なんだこれ、また誤作動か」
スパイスは舌打ちしながら、工房の壁に取り付けた黒い箱を見上げた。センサーが朝から断続的に揺れ続けている。数値は異常ではない。ただ、規則正しすぎる。
「蜂だよ」
コポーが欄干の上から声をかけた。橋の向こう、菜の花畑の際まで、黄金色の群れが行列を作っていた。
「……蜂?」
「知らないのか。今日、世界中でミツバチのことを考える日なんだと。ミニコーが朝刊で言ってた」
スパイスは眉をひそめて群れを見つめた。センサーは彼らの羽音を拾っていたのだ。一匹一匹の羽ばたきは小さい。だがその振動が積み重なって、機械すら黙らせるほどの波になる。
「まわり道してるんだよ、あいつら」
コポーが顎で示した先、蜂たちは直線ではなく、しだれ桜の枝を大きく迂回して花畑へ向かっていた。
「近道があるのに」
「風の具合じゃないか」スパイスは短く答えながら、センサーの数値をノートに書き写した。「蜂は最短距離を知ってる。でもそれを選ばないことがある」
ちょうどそのとき、川沿いからケロミの鼻歌が流れてきた。意図のない、半分眠ったような旋律。すると先頭の蜂が一匹、コースを変えた。ケロミの声に引き寄せられるように、橋の欄干の縁をぐるりと一周して、また列に戻った。
コポーはその一匹をずっと目で追っていた。
「……まわり道した分、誰かに何か運んでいくのかな」
スパイスは答えなかった。ノートに「0520 羽音による共振 最大振幅」と記入しながら、ペンの先で菜の花畑の方向をちょんと叩いただけだった。
やがてケロミが橋を渡ってきた。指先に一匹の蜂を乗せたまま、ゆっくりと歩いてくる。
「なんかずっとついてきてる。歌ったら来た」
「刺されてないか」コポーが後ずさりしながら聞いた。
「刺さないよ。ただ乗ってる」
ケロミの指の蜂は、やがて自分の意志で飛び立った。行き先はケロミではなく、コポーの隣に置いてあった白紙のノートだった。一秒ほど表紙の上に留まり、それから菜の花の方へ消えた。
コポーはノートを拾い上げて、表紙を見つめた。蜂の足跡はなかった。ただ、ページを開くと最初の白紙が、やわらかい初夏の匂いをしていた。
余白: その夜スパイスは、蜂の羽音データを重ねると町の地図の輪郭と完全に一致することに気づいたが、次の朝にはそのページだけ数値が別の配列に変わっていた。
【本日の雫】
- 世界ミツバチの日(World Bee Day): 毎年5月20日。近代養蜂の先駆者アントン・ヤンシャの誕生日(1734年5月20日)に由来し、2017年の国連総会で制定。ミツバチが世界の食料の7割以上の受粉を担う存在として、その保護を呼びかける国際デー。