五月の午後、ケロミの歌がもう一曲分だけ長くなりすぎた。
最初の綿毛が、スパイスの工房の換気窓から音もなく滑り込んできた。ふわ、と橙色の灯の中を漂う白い粒を見て、スパイスは静かに「ああ」と言い、それから計測器の液晶が消えていく順番を眺めた——端の小さなメーターから順に、夢の中へ落ちていくように。棚の奥の古い受信機だけが最後まで残り、ドク、ドク、と脈打ちながら体温を保ち、それからゆっくりと静かになった。
蝋燭を探すのに少しかかった。引き出しの一番深いところに、緊急用の細いものが一本。マッチを三本使い、ようやく橙色の光が生まれた。炎が揺れるたびに、壁の計測グラフの影が踊った。ミントと古い油と乾いた木の匂いが、スパイスの鼻の奥で混ざり合った。
非効率だ、と思った。でも消す気にはなれなかった。
「スパイス!」
引き戸を引いたコポーが、玄関で立ち止まった。何か言いかけて、口を閉じた。工房に満ちた匂いを鼻からゆっくり吸い込んで、しばらくそのまま立っていた。
「……いい匂いがする」
「ケロミが長く歌いすぎた。明日には戻る」
コポーは余計なことを聞かなかった。スパイスが「入れ」と顎で示すと、二人は蝋燭を挟んで向かい合い、揺れる影をしばらく黙って見ていた。
引き出しから紙のノートを出して、スパイスはペンを走らせた。液晶もバックライトも要らない、白い紙。インクの匂いが細く立ちのぼった。
「手書きって、遅いな」とコポーが言った。
「その分、残る」
蝋燭が少し傾いた。コポーが指で蝋を押さえ、まっすぐにした。しゃべらなくても、橙色の光の中にいることが、その夜の仕事だった。
余白: 翌朝、計測器たちが一斉に目を覚ましたとき、停止直前のログだけが戻らなかった。スパイスの紙のノートだけが、あの夜の「今日」を持っている。
【本日の雫】
- 五月の雪(綿毛の反乱): ケロミが歌いすぎた五月の午後に起きる蛙鳴町固有の現象。電子機器が一時的に眠りにつき、翌朝には目を覚ます。停止直前のログだけは戻らない。
- 香育(こういく)の日: 五月十九日、嗅覚を通じた学びを大切にする日。暗い場所では、目より先に鼻が何かを教えてくれる。