五月の朝霧がしだれ桜の枝先を濡らす頃、ソンチョーの家の玄関先には大きな風呂敷包みが置かれていた。
これで三度目だった。
「今日こそ行くぞ。都会で一旗揚げて、みんな驚かせてやる」
コポーは腕を組み、背筋を精一杯伸ばして、古い踏切の方角をにらんだ。五月の湿った空気が肌を撫でた。だが足は、昨日も一昨日もそうだったように、あの遮断機の手前で止まることを既に知っていた。
「兄ちゃん」
ミニコーが新聞を小脇に挟んで追いついてくる。「その荷物、また玄関に置いてくるんでしょ」
コポーはわかりやすく口をとがらせた。「今日は違う。覚悟が前とはまるで違うんだ」
「フェっフェっ」
しだれ桜の下から笑い声が聞こえた。縁側で白い布を干しながら、ソンチョーが空をゆったりと仰いだ。
「月日は過客にして、行き交う雲もまた旅人じゃ。コポーよ、お前が毎朝踏切へ向かって歩く、あの足音がもう旅の続きなんじゃよ。遠くへ行くだけが旅とは限らん」
霧の中で、踏切の方角がいくらか近く見えた気がした。
コポーは黙ったまま荷物を担ぎ、少し考えて、ソンチョーの玄関の前にそっと置いた。そうして、いつもの朝の道を歩き出した。今日は、石橋の欄干の彫刻をひとつひとつ確かめながら。
——去り際、ミニコーは結ばれたままの風呂敷を開けてみた。中には白紙のノートが一冊。出発の記録が、まだ何も書かれていない、これからの旅だった。
余白: その夜、コポーのノートの最初の一ページには、「蛙鳴町まで、歩いて○分」とだけ書かれていた。
【本日の雫】
- 旅の日: 1689年(元禄2年)5月16日、松尾芭蕉が江戸・深川を出発し「おくのほそ道」の旅を始めた日に由来する記念日。「月日は百代の過客にして」で始まる不朽の紀行文が生まれた。
【本日のモチーフ:2026年05月16日】#
旅の日:俳人・松尾芭蕉が1689年(元禄2年)のこの日、江戸・深川を出発し「おくのほそ道」の旅へと旅立ったことを記念する日。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」という冒頭の言葉は、時間そのものを旅と定義した不朽の一節。