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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

引き算の朝

五月の朝、スパイスの工房から甘い匂いが漏れてきた。

「これで十四種類目だ」

作業台の上に並んだ小瓶は、コポーの目には怪しい実験薬にしか見えなかったが、一本ずつ丁寧なラベルが貼られている。龍神様の湧き水、ケロミが去年の夏に摘んで干したミントの葉、モッチーの畑から分けてもらったはちみつ。

「全部まとめて混ぜたら、もっと凄いやつができるんじゃないの」

コポーが指先で瓶を一列ずつ倒そうとしたとき、スパイスの手がそれより一瞬早く動いた。

「混ぜればいいってもんじゃない。何と何を合わせるかが全てだ」

「……才能の話?」

「材料の話だ」

外では風が池面を撫でていた。しだれ桜の枝先がさっと揺れて、一枚の若葉が工房の窓に貼りつき、またふわりと落ちた。スパイスはその動きをしばらく目で追ってから、また手元の瓶に向き直った。

ソンチョーが縁側の向こうから顔を出した。 「スパイスよ、今日の一杯は何だ」

スパイスは答えずに、小さな杯に少しだけ注いだ。水と、ミントの欠片ひとつだけ。

「飲めたもんじゃないぞ、それは」 ソンチョーが鼻を鳴らした。

「引き算がいちばん難しい」 スパイスは言って、杯を差し出した。

コポーは受け取り、一口飲んだ。

冷たくて、少しだけ青い匂いがした。工房の窓から見える池は、何も足さなくても朝日の色をしていた。

余白: その日の夕方、コポーは家に帰ってから、絵の具を一色だけ使って小さな池の絵を描いた。

【本日の雫】

  • カクテルの日: 1806年5月13日号のニューヨーク週刊紙に、世界で初めてカクテルの定義が文書化された。
  • 第79回カンヌ国際映画祭: 日本映画5作品が主要部門に選出。今年は9年ぶりに大手ハリウッドスタジオ作品が並ばず、小さく静かな映画たちが世界の目に晒された。